「化け物?」
セレストと、顔を見合わせる。
「この前見た、偽ものの人間かしら」
「あの種族、精霊使いでもない限り、そう簡単に見分けはつかない。別のものだ」
「じゃあ、もっと怖いやつ?」
「この辺りじゃ、それほど強い魔物は出ない。おおかた、巨大なムカデか……」
形容しがたい凄惨な悲鳴が、はっきりと耳に届いた。
土手を離れ、家の集まる方向に向かう。
「……うそ」
これまでに見たこともない、醜悪な異形の魔物が、そこにいた。
胴の大きさは、小屋を二、三戸並べた位。
太ったドラゴンから翼をもいで、首を引っ張って長く伸ばしたような形をしている。
全身の肉は膿んで腐り落ちかけ、熱に溶けたような真っ赤にただれた皮膚の間から、白骨に臓腑が絡み付いているのが見える。もとの肌の色なんて、分からない。
長い首の先には、ほとんど白骨化した亀の顔のような顔がついていて、眼孔と思われる場所には、赤い光が宿っていた。
ずんぐりとした長い胴に、太短い四本の足。長い尾は、意味を持たぬ飾りのように、ずるずると無気味な音をたてて引きずられていた。
内側から突き上げるような恐怖に、足がすくんでしまう。視線を反らすこともできずに、異形の魔物を凝視する。
「ミーア! しっかりするんだ!」
セレストの声に、現実に引き戻された。
「あ、あれは何?」
身体の震えが止まらない。
これは、悪夢だ。
自分にそう言い聞かせてみるものの、腐臭と湿った音は、あまりに生々しすぎた。
「逃げよう!」
セレストが、私の手を掴む。
「あっ!」
まだ恐慌状態が完全に解けていなかった私の足は言うことをきかず、その場に崩れ落ちてしまった。
心臓が、いやな音をたてる。急げ、逃げろ、そう頭が命令する。
「剣を取ってくる。今のうちに、少しでも安全な場所に行くんだ」
頷いてセレストを見送ったけれど、動けなかった。
緩慢に這いずり回っていた化け物は、私と同じようにすくんだままの人間を発見すると、驚くような速さで、獰猛な肉食獣のように飛びかかった。
それでも獣のような本能はないのか、獲物の息の根を止めることもせず、偶然掴んだ足の骨を砕く。喉を潰すような悲鳴を上げながら、哀れな人間は喰われていった。
精神が、限界を伝えていた。
異形の魔物は、なおも暴れ続けた。
逃げ惑う人びとを追いかけ、長い首で薙ぎ払い、乱暴に喰い散らかす。
正常に機能しているとは思えない内臓を満たす欲望に駆られているのか、その凶行に際限はなかった。
小屋に体当たりして、中にいる人を外へ押し出そうとする。抗った人間は、粉々になった建材と魔物の下敷きになる運命をたどった。
建物の倒壊する音を聞いて外に出たものの、魔物の速さと執拗さに、何よりその恐怖に、勝てるものなどいなかった。
緑の草を、赤黒いものが汚していく。雪の降る村で見た赤い花とは、くらべものにならなかった。
いくらかましだったものも、魔物自身に無造作に踏み荒らされて、形を変えられていく。ばらばらになった四肢が、引きちぎられた肉片が、脳漿が。
「まだ、こんな所にいたのか!」
剣を握ったセレストが走ってくる。
「もう、私たちだけみたい」
抑揚のない声で告げる。
つぶやきを嗅ぎ取ったように、赤い双眸が、こちらを見定めたような気がした。
「あ……」
無意識に、後ろに這う。
「逃げるんだ!」
セレストが、視界を遮るように、正面にきて屈み込む。
青い瞳は、網膜に焼き付いた惨劇を浄化するような、穏やかで美しい光をたたえていた。思考が、魔物から切り離される。
「セレスト……」
すがりついてしまいそうになるのを、恐怖に駆られた早鐘のような鼓動が押しとどめる。
青い瞳から顔を背け、俯いた。
「……もう、無理」
限界だった。逃げることも、誰かを犠牲にすることも。
「私は、もういいわ。あなたこそ逃げて。あんなものを見て……普通でいられるとは、思えない」
「そんな事は、後で考えればいい。ほら、立って」
肩に手を置かれて、乱暴に首を振る。
「普通でいたかったのに! 私も幸せになれるって、信じていたのに!」
嗚咽が混じった。
剣を置いたセレストに、強い力で抱きすくめられる。
「諦めるんじゃない。生きている限り、可能性は幾らでもある。幸せになれる」
そんなものは、もう何処にもない。砕け散ってしまった陶器の破片は、元に戻ることはないのだ。
「なれないわ」
「これから、なればいいだろう? きみは強い。きっと、幸せになれる」
「これから?」
不安に駆られ、幼い子供のように、おうむ返しに尋ねる。
「そうだ」
穏やかな声音が、気持ちを鎮めてくれる。私は、彼を信じてここまで来た。まだ、生きている。可能性は、いくらでもある。
腕を解いて立ち上がったセレストに手を差し伸べられ、応えようと手を伸ばした時、セレストの背後に、ずるずると湿った音が近付いてきた。
魔物のおぞましい咆哮が轟いた。
音が振動となり、耳に届く。耳の奥で幾度も反射し、戦慄となって体全体に伝わっていった。
「ミーア! 早く!」
「あ……」
思うように、身体が動かない。金縛りにでもあってしまったように、その場から動くことが出来ない。
魔物の咆哮のせいだ。
愕然と、セレストを見る。
「どうしよう! 動けない!」
「……」
セレストが、眉を寄せる。
彼の背後に、巨大な異形の魔物の姿が迫った。
「セレスト! 後ろ!」
セレストは、穏やかな笑みを浮かべると、私に背中を向けた。
「きみは助かる。助けてみせる。だから、早く!」
「嫌ぁ!」
醜い魔物の赤い口腔が、セレストに狙いを定める。
胸の悪くなるような音をたてて、セレストの首が、胴から引きちぎられた。
朱の飛沫が頬に飛ぶ。熱い。
残された塊が、鈍い音をたてて膝の上に落ちるのを、感情の伴わない瞳で凝視する。
青年の中に流れていた生暖かいものが、膝を濡らしていく。
朱に染まった禍々しい
魔物は、動きを止めた。
「おまえは、幸せか?」
虚ろな声で問う。膝の上の塊から放たれる臭気も、もう届かなかった。
「彼は……この村の人たちは、おまえの腹を満たすために生まれてきたというのか?」
ふらりと立ち上がる。
膝の上の塊が、鈍い音をたてて草むらに落ちた。
「これが神の申し子か! 罪なき者のひつぎは、異形の腐った
声の限りに叫ぶ。そうしないと、全てが崩れていく感覚に埋もれてしまいそうだった。
魔物が、動きを止めた。
「さあ、私も喰うがいい! 私ならば、おまえの餌にふさわしいだろう!」
魔物が口を開くのを待った。私に狙いを定めて。
しかし、魔物のとった行動は、予想していないものだった。しゅうっと細い息を吐くと、後退し始めたのだ。
わけが分からず、魔物を凝視する。
「待て! どこへ行く!?」
ずるずると、あのいやな音をたてて、魔物は完全に森へ向かって進み始めた。
困惑したまま立ち尽くしていると、やがて、魔物の気配はなくなってしまった。
「……どうして?」
私は、セレストと同じ場所には行けない。
私は、星にはなれない。
問いに答える者もなく、私は、また、一人になった。
変わり果てた姿で横たわるセレストの隣に座ったまま、魔物の消えていった森を眺めていた。
惨状から目をそむけ、普段と変わらぬ景色を眺める。
青い湖面が微かなさざ波を立て、緑の木々の葉も風を受けて小さく揺れる。
時を刻むのをやめてしまった冷たい身体。人知れず朽ちていくであろう、小さな村。
裁かれるべきは、人を殺し、欺き、逃げた私だったのに。
何故、罪なき人が喰われ、汚れたものは生き延びる?
神は己を讃える人を救わず、異形の魔物や魔王の娘を世にのさばらせる。
なんと理不尽な仕打ちだろう。
もう動く事のない大きな手に、そっと触れてみた。私より温かかった筈のそれは、氷のように冷たかった。
投げ出されたままだったセレストの剣が、視界に入る。
「……順番が、違うじゃない」
最初になくなるのは、この剣か、私のはずだった。
手を伸ばして、白い柄を掴む。
兄さんが扱っていた大剣とは比べ物にならないほど細い剣なのに、初めて手にしたそれは、ずしりと重かった。
冷たい輝きを放つ刃を眺め、剣の主人を見る。
自らこの剣を喉元に突き立てることは、セレストにとっては侮辱だろう。追ったところで、私は星にはなれないのだ。
湖に近付いて、重い刃を力一杯振り上げ、無造作に放り投げた。飛沫を上げ、剣が湖面に呑まれる。
ゆっくりと波紋が広がっていくのを見届けて、笑った。
セレストは、剣のない未来を願った。
「あなたは、剣を使わずに、私を助けてくれたわ。もう、必要ないでしょう?」
森を抜けた頃には日が傾き、空が赤くなっていた。
大樫にもたれかかり、ずるずると根元に座り込む。
「森の王よ……いかなる種族も、この森を通してはならぬ。胎内にとらえた者は、出してはならぬ。未来永劫にな」
重い手を動かして、森の王を呼ぶ。こんな気持ちのまま、うまく呼べるかしら。
大樫の葉が揺れ、ざわざわと音をたてる。
「私の魂でも精神でも、好きなだけくれてやる。これを最後の契約としてもよい。この森に、人を入れてはならぬ」
「分かった分かった。今回ばかりは、うぬの心に免じて聞き入れよう」
始終を見ていたのだろうか。森の王が溜め息と共に返してきた。
立ち上がる気にもなれず、赤から深い青へと色を変えていく空を眺める。
心の虚無感を溶かしたような、雲のない空。寂寞たる空に浮かぶ細い月が、すべてが無意味で不条理なのだと、
悲しい定めに身を投じた兄。すべてを許してくれた優しい青年。
奪われた幸せ。踏みにじられた高潔な魂。
どこに“裁き”があるのだろう。
神の天秤は、人に何を求めているのだろう。
漆黒の空に、星はつめたく凍るように光っていた。
死して尚、この世界を照らす、魂の
このような世界に、なんの未練がある?
毎晩のように見下ろす世界は、おまえたちが死を怖れて足掻いていた場所だ。
美しいか?
まだ、還りたいと思うのか?
傲慢な女神の天秤が振り分けた魂の光は、平等の輝きを持たない。
あかあかと輝くものがあれば、今にも消えてしまいそうな小さく暗い光もある。
星になってさえ、神は魂を縛るのだ。
吐き気のような不快を感じて、きつく目を瞑った。
かつて感じた、焼けた鉄を背中に押しつけられたような憎悪も、わき起こらない。
やり場のない無念さに包まれていく。
世界がある限り、生命は平等じゃない。
光があるから、人は縋る。
希望を持つから、絶望する。
光を求めるものの後ろには、陰ができる。
陰をつくらぬ為には、どうすればいい?
簡単なことだ。光を消せばいいのだ。
それでも足掻くというのなら、光を求めるものを消せばいい。