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§緑陰の柩:第8章§

緑陰の柩 (2)

著:真柴 悠

「相手から、名乗り出てきたみたいよ」
「厄介な所に来てしまったな」
 息を吐いて、もう聞き慣れてしまった神への祈りの言葉を呟いた。
 無防備に草を踏み分ける、大きな音がした。
 一瞬、人が現れたのかと思った。
 けれど、病的な青い皮膚を見るまでもなく、その者が持つ生命の精霊が、人ならざる存在であることを伝えてきた。
「変だわ。人の格好をしているけど……魂が違う。人じゃない」
 セレストの眉間の皺が深くなる。
「あいつの目を見るな」
 鋭く告げられて、無言で頷いた。
「人や動物の血を吸って生き長らえる魔物だ」
 よく見ると、人の姿をした魔物は、見慣れた服を着ていた。それも、村びとではなく、町の人が好んでするような服装。
「あの服……人間から奪ったものかしら」
「おそらく、彼のものだろう」
「え?」
「さっきの沼だ。狩猟目的だったんだろう。何も知らずに、あの沼に近付いて……」
「毒に、やられてしまったの?」
「あるいは、沼から現れた原種に」
「セレスト!」
 もう! 今は、そんな事はどうだっていいでしょう!?
 あまりにも淡々と喋るものだから、自分たちの置かれている状況を忘れそうになったじゃない!
 セレストがのんきに考え込んでいる間にも、人の姿の魔物は、泥酔した人の頭に袋を被せたようなおぼつかない足取りで、確実にこちらに向かって近付いてくる。
「人に戻してあげることは出来ないの?」
「残念だが、僕にはそんな力も知識もないな」
「じゃあ、殺すしかないの?」
「彼の魂は、もう存在しない。きみも、精霊使いなら解るだろう?」
 セレストは、いっこうに剣を取る気配を見せない。確かに、あんな不自然な状態で人や動物を襲うなんて、剣で刺しても意味がなさそうね。
 無気味な静けさに包まれる。相手の目を見てしまいそうになって、慌てて顔を背けた。
「ねえ、なんとかしないと……」
「人に戻すことは出来ないが、偽りの魂から開放する(すべ)は知っている」
 そこで初めて、セレストが一歩前に出た。
 狙いを定めた魔物が、緩慢な足取りでセレストに近付いていく。
「我が主、真実の神よ。在らざる所なき者、満たさざる所なき者よ。慰むる者、来たりて我の内に入り、我の諸を穢より潔くせよ、彼の霊を救い給え」
 戦闘とは無縁な、村での礼拝の時に聞いた声が、静寂の森に溶けていった。
 ちょっと、何してるのよ!
 なじろうとして、魔物の動きが止まったことに気付いた。
「悲しき不浄の魂よ、久遠を彷徨う歪められし器よ、神の光に導かれ、混沌へ帰還せよ」
 魔物が、怪鳥が威嚇するような、甲高くしわがれた叫び声を上げた。
 セレストに背を向け、どこからそんな力が出るのか、襲ってきた時の三倍の速さで、森の中に消えてしまった。
 詠唱が途切れる。
「追わなくていいの?」
「僕の力では無理だ」
 不満をにじませた声が返ってきた。
 額に汗を浮かべ、近くの木にもたれかかる。
「こんな事なら、もう少し真面目に神の道を歩んでいればよかったな」
 息を乱しながら呟く。
 淡々と紡がれた詠唱に、思念が込められていたことを、漠然と感じた。
 セレストの力を目の当たりにした私には、心に余裕があった。
「すごいわね。一瞬で効果が出るなんて。やっぱり対極の力はてきめんね」
 喜ぶ私とは対称的に、セレストの表情は苦いものだった。
「彼の攻撃に遭っていれば、今頃僕らは彼の仲間になっていただろう」
 なんだか卑怯ね。でも、なかなか効率のいい生産方法だわ。
「彼をあんな風にしたのは、暗黒神の下僕だ」
 ……じゃあ、お父さんや、その部下たちにとっては、戦力でもあるのね。ちょっと頼りない感じがしたけど……相手が悪かったんだわ。
「人を……生命(いのち)を、何だと思っているんだ! 汚らわしい!」
 憎々しげに吐き捨てた。セレストから、あからさまに他者を罵る言葉を聞いたのは初めてだった。
 セレストの心は、闇を打ち払う光を紡ぎ出す。
 判りきっていた筈なのに。
 彼は、私とは正反対の眩い光の中にいる。
 彼と共に行動するようになってからも、たくさんの魔物を見た。もし、妖魔が現れたら……私は、どうすればいいんだろう。
「……驚かせてしまったかな」
 気まずそうに頬をかくセレストに、背を向ける。
「そんなしおらしい女じゃないわ。帰りましょう。さっきと同じようなのが出ても、今のあなたじゃ使いものにならないようだし」
 つらい事があっても、いやな事があっても、顔に出してはいけない。
 何があっても崩れない、鋼の仮面を身に着けよ。お父さんは、まだ年端もいかない私に、幾度となくそう言った。
 私は魔王の娘。……隣にいるのは、憎いシルファスの卑しい司祭。
 でも、私は知っている。彼の手が温かいことを。互いのことを何も知らない他人の為に、自分の時間を惜しみなく割き与えることを。

◇◆◇

 洗濯物を干し終えると、野菜を分けてもらうために、隣家を訪れた。
「今日はキャベツを収穫したのよ」
 すっかり顔馴染みになったおばさんは、人の顔ほどある見事なキャベツをいくつもかかえてやって来た。
「その籠じゃ小さいわね。こっちに入れていきなさい」
「そんなにたくさん、食べきれないわ」
 慌てておばさんを押しとどめる。
「主人が、あなたたちの畑も作るって言って張り切っちゃって。明日も天気がよかったら、ニンジンを掘るって言ってたから、また取りに来てね」
「ありがとう」
 結局、ことわりきれずに、たくさんのキャベツを持って帰ることになった。
 家に戻って野菜を置いてから、水を汲むためのバケツを持って、外に出る。
 湖のほとりに近付くと、見慣れた金髪が見えた。
 土手の淵で、湖に向かって釣り糸を垂れているセレストに近付く。
 住んで間もない頃は、湖の生き物を釣ることをためらっていたけれど、村びとたちは当たり前のように魚を捕っていたし、その魚もまた、今まで食べたどの魚よりもおいしかった。
「どう? 釣れそう?」
「さっぱりだよ」
 退屈そうな声と共に、セレストが振り返る。
「お隣から、キャベツを山ほどもらったのよ。だから、魚が捕れなくても安心してね」
「キャベツだけ食べろという事か?」
「そうよ」
 すでに、幾度か食べきれない野菜を経験していたので、余計な説明はいらなかった。
「これは意地でも釣って帰らないとな」
 隣に座って、水平線を眺める。
 今日のように天気のいい日は、うっすらと対岸が見える。天に向かって突き上げた鋭い刃のような山々は、あちらに山があると信じて目をこらさなければ分からない。
「……平和ね」
「そうだな」
「あの山の向こうにいた頃が、嘘みたいだわ」
 不安と緊張の日々。私のまわりにいた者を簡単に飲み込んでいった“死”が、私のもとに訪れることはなかった。
 私は、人を簡単に殺してしまったから。天秤は、私に傾いた。神によって、この地にのさばることを許された。
 それが“幸福”なのかどうかは分からない。生きているから今がある。けれど私は、屠った者たちに、自分の“幸福”を求めた訳じゃなかった。
 “幸福”は自分で得るものだと、セレストが教えてくれた。
「ミーア」
 暗い感情を、澄んだ声音が打ちやぶる。
「なに?」
「今でも、死ぬことに抗う気持ちはないのか?」
 考えている事が、すぐ顔に出てしまうみたい。
 セレストの気遣わしげな表情に、軽くため息をついた。
「どうかしら」
 私が死ねば、たぶん、彼は悲しんでくれる。それを試そうなどとは思わないけれど。
「野菜だけの生活が続いたからって、死にはしないわ。だから、全然釣れなくても安心して帰ってきてね」
「……分かったよ」
 微笑が返ってきた。
 踵を返そうとした時、
「うわあぁ! 化け物だ!」
 穏やかな空気を裂いたのは、そんな悲鳴だった。

÷÷ つづく ÷÷
©2003 Haruka Mashiba
第8章 『緑陰の柩(3)』&最終章 は、近日掲載!
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