楕円形に押しつぶされた緋色の塊が、湖の向こうへ沈もうとしている。
湖面はそれを忠実に写し取りながらも、風に煽られて、真に姿を真似ることはできない。
はかない幻影のように、湖面に石を投げ込んだだけで揺らぎ、壊れてしまう。
人間は、神話の時代に光と闇の神が争い、流れ出た双方の血が混じってできたと伝えられている。
感情の波にたやすく流されてしまう人間は、神と同じ姿を持ちながらも、地上という湖から出ることを許されず、たえず揺らぎながら、壊されることに怯えながら生きている。
すでに通い慣れた岩場から、朱に染まった空と、それを写す湖を眺める。
セレストは、一人で祈りたいからと言って、昼過ぎから家にこもったまま出てこない。
彼と出会ってから、ずっと行動を共にしていたことに、今更ながらに気付いた。
それだけ、彼の存在は自然で当たり前のものになってしまっていた。
――おまえは強い子だ。僕なんかより、おまえを幸せにしてくれる人が、必ず見つかる。
兄さんが残していった言葉が、頭に浮かんだ。
この湖に来ることは、セレストの目的だった。
偶然、旅先で自殺まがいの怪しい女を拾って、放っておけずに連れて来た。
とくべつ何かを要求されたことも、邪険に扱われたことも、一度としてなかった。
なぜ私を連れて来たのか、なぜ“救える”と思ったのか、正面きって尋ねられないのは、どうしてだろう。
否定されるのが怖いから?
なにを前提として“否定”される?
彼に依存してはいけない。彼を求めてはいけない。彼だけは。
それは“否定”ではないか。
光の神の信徒として生き、その名に恥じぬ子孫を残さなければならない。それが、彼の“幸せ”となる筈だから。
彼と共にあることを望んではいけない。彼が、新たな未来を求めて、この地を去るまでは。
足元に転がっていた小石を拾い上げた。
湖に向かって投げ入れようとした手を、真上で止める。
深い青。誠実さを象徴する宝石の色。この色を美しいと思わない人間は、存在するのだろうか。
上げたままだった手を下ろす。
暫く逡巡してから、石を地面に転がした。
「あれ? 出かけるのか?」
適当な大きさの籠を持って、外に出る準備をしていると、礼拝を終えて戻ってきたセレストが、家に入ってきた。
「キノコを採りに行くのよ」
重そうな教典を机に置いて、突然、表情を輝かせる。
「アマンティアというキノコを、見た事はあるかい?」
「さあ? 食べられる種類? どんな形?」
「いや、本に名前が載っていただけなんだが、このあたりで採れる、珍しいキノコらしい」
セレストの悪癖が始まって、内心で溜め息をついた。
「暇なら、探せば?」
冷たい一言も通じなかったようで、嬉々として私から籠を取り上げ、外出する時の癖のように剣を佩くと、引きずられるようにして、家を出た。
「ちょっと、私はそんな変なキノコいらないわよ!」
畑を耕していたお爺さんが、手を止めて私たちを見る。
「仲のええ夫婦じゃなあ」
「夫婦なんかじゃないわよ! 馬鹿ぁ!」
私の罵声も意に介さず、お爺さんは笑っていた。
深い皺を刻んだ笑顔は、雪の村にいたお爺さんを連想させるから、あまり好きじゃなかった。
「ちょっと待って!」
勢いのまま、森の中に入っていこうとするセレストを止める。
「この間は向こうで採ったから、今日はあっちに行ってみましょう」
セレストには、村での仕事がたくさんあった。私は、隣家のおばさんに料理を教えてもらう以外の時間のほとんどを、森の中で費やした。だから、森の中にはかなり詳しくなっていた。
湿地の多い場所を見つけて、今日の収穫場所をそこに決めた。
籠を地面に置いて、湿った落ち葉の折り重なるあたりを観察する。
セレストも、近くの木の根元に屈んで、苔の生えたあたりを探し始めた。
「これは、なんていう名前なんだろう」
最初は適当に相槌をうっていたけれど、収穫というにはあまりにも能率の悪いセレストの行動に、だんだん腹が立ってきた。
「考える暇があるなら、次を採る! 家に持って帰ってから、検分すればいいでしょう!?」
私に叱責されて、セレストは食べられそうなキノコを集め始めてくれた。たまに怪しいキノコが籠に入っているのは、きっとあまり採取したことがないからね。
「これは駄目よ。裏に白いトゲがあるでしょう?」
「ああ、本当だ」
「食べるんだったら、止めないけど」
「……症状は?」
「知らないわ」
「じゃあ、試してみようかな」
真顔で呟くセレストに、思わず吹き出す。
「全部試していたら、命がいくつあっても足りないわよ」
「キノコの文献を作った人は、どの位の犠牲者を出したんだろうな」
「そんな事より、キノコ集めてよ! 足りなかったら、あなたの分にはさっきの毒キノコを混ぜるわよ」
「その時は、結果を詳細に記録して、学会に発表してくれ」
毒キノコの学会? いやよ、そんな所に出るの。
口数は減ったけれど、相変わらず手より頭を使ってばかりのセレストを放っておいて、キノコ集めに専念した。
「ずいぶん採ったわ。この位でじゅうぶんね」
籠を持って立ち上がると、いかにも食べられそうにない、白いキノコを持ったセレストも、立ち上がった。
「それ、食べるの?」
「これは、負の力がはたらく場所に生えるものだ」
唐突な言葉に、首をかしげる。
「よく見てごらん」
「……」
セレストの手に乗せられた白いキノコから放たれる、微弱な臭いを嗅ぎとった。確かに、自然のキノコじゃない。
「どういう事?」
「神殿で教わったんだ。形があまりにも独特だったから、よく覚えている」
手にしたキノコを無造作に放り投げ、わずかに眉を寄せた。
「せっかく集めたが、そのキノコも食べない方がいい」
「そうかしら?」
勿体なくて反論したけど、白いキノコの影響を受けているかもしれない。そう思い直して、頷いた。
「森自体は、清浄なのに……」
原因は何かしら。
ふと、木々の間を細い風が通り抜けた。
その中に、ほんの僅かな臭いを感じとって、顔を上げた。
「こっち」
籠を地面に置き、森の中に足を向ける。
「ミーア?」
追ってくるセレストも、事情を悟ってか、おとなしく付いてきてくれた。
徐々に濃くなる臭気を、盲目的に追う。
ゆっくり歩いたから、距離はそれほどのびていない筈。
ついに、吐き気を伴う悪寒におそわれて、立ち止まった。
「セレスト……何かいる」
「え?」
精霊の力が、激しく乱れている。意識を集中させると、視界が黄色く染まった。
「空気が?」
始めて出くわす事態に、刮目した。
「確かに、かび臭い。沼かな?」
ああ、見えないって、分からないって、強いわね。こっちは頭が割れそうなのに。
恨めしくなって立ち止まると、セレストが振り返った。
「そんなに強力なのか?」
「多分、毒だわ。戻りましょう」
気を反らしたいのに、高揚した精神はどんどん敏感になっていく。こうなると、小さな精霊にも精神を乗っ取られてしまいそうで怖かった。
「……?」
否応なく研ぎ澄まされた精神に、張り巡らされた蜘蛛の巣に羽虫がかかったような、小さな反応があった。
「やっぱり、何かいる。沼から……」
「少し引き返そう。顔色がよくない」
セレストに促されて、清浄な空気の流れる場所まで戻り、幾度か深呼吸をすると、ようやく頭痛がおさまった。
近くの木の根元に腰を下ろして、大きく息を吐く。
「あいつ……追いかけてこないとも限らないわね」
「強そうだったか?」
「分からないわ」
「放っておけば、村びとに危害を加えるかもしれないな」
それは、私にとってはどうでもいいんだけれど。
そう心の中で返しながら、あの不快な気配を探って、再び精神を集中させる。
剣の柄に手をかけ、鋭い瞳で辺りを見回しているセレストを見上げ、立ち上がった。