咄嗟に声が出てこなかった。
そこから先には、木も草も地面もなく、青い世界が広がっている。
海の青さとは異なる、深い濃い青。隣に佇む青年の瞳の色だった。
青い湖面が微風に揺らぎ、弾かれた陽光が煌めいて、磨き上げられた宝石のように心を奪う。
「これが……シエル湖」
冷静さを取り戻したのは、私の方が先だった。
食い入るように湖面を睨んでいるセレストを見て、笑う。
「怒ってるみたい」
「……」
感動の余韻が覚めやらぬのか、瞳はこちらに向けられても、返ってきたのは沈黙だった。
「幻惑の罠にでもかかったかしら?」
「少しでも長く、目に焼きつけておこうと思って」
「時間制限があるとすれば、あなたの寿命だけだわ」
「それもそうだな。集落がある筈だ。さがそう」
村は、すぐに見つかった。
規模は、雪の山にあった村より少し大きい程度で、土地が広く、家の間にゆったり畑をもうけている。
外からの客は珍しいものではないらしく、畑にいる人からも、特別変な視線は受けなかった。
農作業をしているおじさんに、村長の家を教えてもらい、住居の提供を願い出る。
「まあ、二、三日なら泊めてやらんでもないが……」
招かれざる客に対して、村びとの対応はそっけないものだった。
けれど、セレストが聖職者であることを知ると、途端に掌を返し、空いている小屋を提供してくれた。
「ふん。随分、寛容な人たちね」
村長の家を出て、言われた小屋に向かいながら呟く。
「仕方がないよ。なるほど、こんな景色の素晴らしい所に住んでいても、神の教えは必要か」
「どうして、そこに直結するのよ。人の悩みごとなんて、景色には関係ないでしょう?」
綺麗な小屋だった。いたんだ所も、ほとんど無い。
たぶん、村に増える新しい所帯のために空けてあるんだわ。
……所帯。頭に浮かんだその言葉を、慌てて打ち消した。
建てた時に作ったものなのか、一通りの家具も揃っていた。
「なにか、裏があるんじゃないかしら」
神の名ひとつでこんな場所に住めるなんて、考えられないわ。
「至高神を欺かんとする大それた村びとがいるのなら、会ってみたいな」
シルファスは、そんなに幅をきかせているのね。
「期待してるわ、司祭様」
セレストが、剣の帯を外して、白い鞘を壁に立てかける。
「あ……」
兄さんが残していった黄金の剣が、それに重なった。
桶の水は、保存していた野菜は、たまった洗濯物は、どうなっているんだろう。
せめて、あの黄金の剣だけでも隠してくればよかった。
壁の木目が、兄さんと居た小屋と重なる。
殺風景な部屋の中央に立つのは、金髪の青年。
勇者、裏混沌、転生、記憶……
頭の片隅に押しやっていた言葉が、無防備に開け放たれた心に、次々と浮かび上がってくる。
「ミーア?」
「触るな!」
鉛の塊を呑み込んだような息苦しさと圧迫感に襲われる。
闇の手が心を掴み、気道が圧迫されて、獣のような荒い呼吸を繰り返した。
あなたには、勇者の事を、忘れて頂きます。
そんな! 私は一人になるの!? どうやって生きていけばいいの!?
私は独り。たくさんの命を犠牲にしながら、生き延びた。
何も見えなかった。前も後ろも、立っている場所さえも、全てが闇だった。
これが、私の居場所。魔王の娘の、虚しい末路。
「ミーア!」
伸びてきた手を、乱暴に振り払った。
「お前もか! お前も、私から全てを奪うのか!?」
――奪ったのは、お前じゃないか。
全身に霜柱をはり付けた人が、笑う。
妖魔たちが、雪の村の老夫婦が、手を伸ばして徐々に押し迫ってくる。
「来ないで! 向こうへ行ってよ!」
逃げたいのに、身体は動かない。
闇の手が、私を捕らえて離さない。
突然、肩を掴まれた。
「……!」
身体が竦んで、悲鳴さえ上げることが出来なかった。
堅く目を瞑る。
「我が主、真実の神よ、汝が光を以て、迷えし者の心の眼を明らかにせよ」
周囲を取り囲む闇に、静かな声音が届いた。
心を鷲掴みにしていた黒い手が、ゆっくりと離れていく。
大きく深呼吸をして、目を開いた。
「落ちついたか?」
青い瞳が間近にあって、慌てて後ろに下がった。
「な、なに?」
「記憶が、心に闇を広げたんだろう」
「記憶……」
残っていた闇を吐き出すように溜め息をついて、そばにあった椅子に腰を下ろした。
生々しい動悸をおさめようと、胸に手を当てる。
もう一度呟いて、壁に立て掛けられた白い鞘を見た。
救えなかったお父さん。慕ってくれた妖魔たち。行きずりの身を受け入れてくれた、小さな村の人びと。
「私に、もっと知識があれば、みんな助かったのかしら」
空飛ぶ魔物を仕留め、深手を負ったセレストの傷を治すことのできた私なら、彼らの為に、なにか出来たのではないだろうか。
セレストが、珍しく自嘲的な笑みを浮かべて、顔を背ける。
「僕も、旅に出るまでは、貧しい生活に苦しむ人の事なんて知らなかった。神殿に来て、布施をした者の治療をして、祈りを聞くのが当たり前だった。治るはずの病気も、金銭がないから治療してもらえずに苦しんでいる人の事なんか、知らなかったんだ」
背中を向けているから、表情は分からない。声には抑揚がなく、なんの感情もこもっていなかった。
「そんな事を“知らなかった”で済ませる人間の罪は、どれだけ重い? どの神に問えばいい?」
神は、この世界の生命のひとつである人間が、こんなことを考えている事実を知っているんだろうか。
「……あなたは、どうしたいの?」
「分からない。気持ちだけが先走って、本当は、何もしていないのかもしれない」
何と答えていいのか、分からなかった。
人が不安になるのを見て、自分も不安になるなんて、初めてだった。
「業を背負っているのは、人間なのかしら。それとも、この世界そのものなのかしら」
セレストが、窓を開けた。
緑の匂いを含んだ風が、私たちの間をすり抜けていく。
「己の内に潜む闇は、気の持ちようで重くも軽くもなる」
声が、幾らか柔らかくなった。
「じゃあ、余計なことを考えてしまう人間が悪いのね」
「素晴らしいことじゃないか」
「心の闇に真っ向から勝負して、負けたらそこで終わればいいのよ。私は、神になすりつけてまで生きたくないわ」
セレストが振り返る。
「きみが死ねば悲しむ者が、一人でもいたとしても?」
「それは……」
仮想をたてようとして、すぐに挫折した。
「いないわ、そんな人」
「……そうか」
彼にしては珍しく、引き際が潔かった。
「あなたの髪がいけないのよ」
何の脈絡もない非難に、当然、不思議そうな顔をする。
「目立ってしょうがないわ」
「黒く染めようか?」
似合わない。そう告げるより先に、笑ってしまった。
翌日、私たちは村長に呼び出された。
村長の家の広間には、村びとらしい面々が揃っていた。
セレストに、礼拝を行ってほしいというのが、彼らの依頼だった。
湖の淵にほど近い岩場に、足を運んだ。
一番高い岩に登って、腰を下ろす。
セレストは地面に突っ立ったまま、湖面を眺めている。
「変なの。何でもいいから、祈りたいのね。なんだか気味が悪いわ」
投げやりに告げた。セレストが苦笑する。
「ここの人たちは、聖職者を欲したのであって、シルファスの教えなんかに興味はない」
湖を見たまま、独白のように告げる。
私がどれだけ乱暴な物言いをしても、セレストは言葉を乱したりはしなかった。内容は痛烈なものが多かったけれど。
「池で溺れている人がいたら、まず手を差し出すべきだ。泳ぎ方を教えたり、安全な場所を歩けと注意しても、意味はないだろう?」
「窮屈な世界ね。皆、溺れて足掻いて生きていかなきゃならないなんて」
肩をすくめると、セレストが振り返った。見おろす事に慣れていなくて、少し戸惑う。
「僕は、救いを求める人を知りたくて、神殿の外に出た。君は何故、自分に救いが必要ないんだと思う?」
セレストの問いかけは、いつも不器用で漠然としていて、難しい。それでも真摯な問いである以上、素直に思っていることを告げるしかなかった。
「私に、そんなまやかしは必要ないわ。祈ったからって、死んだ人は生き返らない。全ての人が、何かに縋っていなければ生きていけない世界なんて、残酷だわ。滅んだ方がましよ」
「そうだな」
珍しく、セレストの声がかげった。
「でも、多分、正しいのはあなただわ。世界を消すことなんて、人には出来ない。縋る存在が必要な世界なら、縋るものを与えてくれる人が正しいのよ」
「……ミーア」
どうやら私も、セレストの苦労症に感染しかけているみたいね。世界のことも、見た事もない他人のことも、深く考えた事なんてなかったのに。
岩から飛び下りて、もう一度、湖を見る。
「幻獣、いないわね」
「広い湖だ。気長に待てばいい。この湖だけでも、十分に価値はある」
確かに綺麗な景色だっけれど、私が感銘を受けたのは一番最初だけで、今は自然な風景になっていた。
セレストの眼には、この湖がどんな風に映っているんだろう。
「泳げるかしら」
「こんな綺麗な水に触るのは、少し気が引けるな」
「あら、ここの人たちは、きっと魚を釣ったり洗濯物を洗ったりしているわ」
「……そうかな」
認めたくない様子で、首をかしげる。
「そろそろ、お祈りの時間じゃない?」
毎日セレストの日課を見てきたお陰で、だいたい祈る時間帯が分かるようになっていた。
「きみも来るか? 退屈しのぎどころか、退屈にしかならないだろうが」
静寂が支配する中、セレストの声が、仮の礼拝堂となった建物の中に響く。
セレストは、不快だろうから来なくていいと言ってくれたけれど、彼の執り行う礼拝に興味があった。
元々あまり戦士という感じのしない青年であっただけに、教典を開いて何かしらの一節を読み上げる姿に違和感はなかった。
古めかしい語調で綴られた文句は、多分、ここに集まった人びとに感銘を与えるものではない。
それでも、最初は私語をもらしていた人たちも、いつの間にかセレストの声に聞き入っていた。
不思議と、嫌悪感はなかった。若い戦士の声は、優雅でも重厚でもなかったけれど、澄んでよくとおり、堂々としていて、かえって清々しかった。
礼拝が終わり、村びとたちが皆出ていってしまうと、セレストは自身で神に祈りを唱え、教典を閉じた。
「途中で出て行くものだと思っていたが?」
そのつもりだった。セレストの声に聞き入ってしまうのは、予想外だった。
「退屈し過ぎて、半分眠っていたわ」
踵を返し、建物から出た。