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§緑陰の柩:第6章§

風舞う沃野 (2)

著:真柴 悠

◇◆◇

 オストレイクの街で一泊し、自由都市レダにつづく街道を踏んだ。
 これまでとは一転して、下り坂が続いた。
 草で覆われた、なだらかな丘陵地帯。ところどころ、白い岩が牙のように突き出している。
 相変わらず好天が続いているお陰で、進行具合は、セレストがたてた予定よりも随分早かった。
「レダって、どんな所なの?」
 草に足を取られないように、足元に注意を払いながら尋ねてみる。
「賑やかな所だな」
 からかうような声が返ってきた。理由はだいたい分かっていたけれど、他に言うこともないから、あえて乗った。
「アルファンと、同じ位?」
「ちょっと質が異なる。サリア地方の商工同盟の盟主の立場にある都市だから、商人が多い」
「……変なの」
 恰幅のいい中年の商人が、街中たくさん歩いているのを想像して、眉根を寄せた。
 セレストの忍び笑いを聞き咎める。
「なに?」
「べつに」
 青い瞳を軽く睨むと、笑いを引っ込め、意識して無表情をつくって、街道の前方のなだらかな傾斜を眺めた。
「元はサイフォンの支配下にあったんだが、商人と住民が一体となって独立運動を起こした。その指導者であり、現統治者というのが、諸国を遍歴して名を上げた女性なんだ」
 たいして私の興味を引く事ではなかった。彼の口調のせいかもしれない。
「セレストは、オストレイクの方が好きなのね」
 前方の青い空に浮かぶ、パンの失敗作みたいな雲を見上げる。
「領主間の諍いは、アリステアでは日常茶飯事だ。……嫉妬かもしれないな」
 セレストが、低く呟いた。
「どうして?」
「簡単なことだ。自然は豊かで、争いごともない」
「攻め入って、アリステアの領土にすればいいのに」
 無責任な言葉だけど、私にとっては、どうでもいい事ですもの。
「そうしたいのは山々なんだが、いかんせん、サリアの人の気性が怖いのさ」
「……それだけの理由で、誇り高き民は、黙って嫉妬に燃えているの?」
「きみも言うなあ」
 セレストが、頭を掻いた。
「サリアの人が怒ると魔王よりも怖い、という文句を、子供の頃から聞かされて育つんだ。無理もないだろう?」
「……」
 私も、生まれたのはサリアの辺境。歴代の“勇者”を輩出してきた小さな村が故郷。それでもやっぱりお父さんが怒ると、ものすごく怖かったわ。
「そんなの、嘘よ」
「分かっているんだけどね。皆、誰かが行けばいいと思っている程度だ」
「じゃあ、あきらめて国内で争っている方が楽なのね」
「そういう事かな」
 セレストも、自分の国に対しては批判的なのだ。
 話を弾ませているうちに、随分坂道を下りた。
 一見なだらかに見える坂道は、実際に踏み込むと、かなり急な斜面が多かった。
 オストレイクに向かう登りは、先が見えなくて、丘をひとつ越えるたびに、まだ先があるのかと落胆していたけれど、延々と草木の間を縫う街道が眼下に広がっているのも、うんざりする光景だった。
 セレストは、この道を通ってアルファンに来たんだわ。
「物好きね」
 思わず呟いた声は、少し前を歩く青年にしっかりと届いてしまった。
「思い当たるふしが多すぎて、どれの事か分からないな」
「こんな道を見て、行きたくないって思わなかった?」
「なんでも簡単に手に入ってしまったら、面白くないだろう? 徒歩で何日もかけて行かなければたどり着けないような場所だから、価値があるんじゃないかな」
「そこに住んでいる人にとっては、当たり前の事なのに?」
「自分の知らない場所は、全て秘境だ。あの山の裏側も、街道の、通らなかった方の分岐点も、都市の路地裏も。どんな景色なのか、何があるのか、気になって仕方がない」
 いつになく熱心な言葉は、微笑を誘った。
 自分とは全く異なるものを追い求める青年の内にある、老いを知らぬ少年の心を垣間見たような気がした。
「もし、世界の全ての景色を見てしまったら、満足するかしら?」
「……無気力になるだろうな」
 途方もない空論に、セレストが真面目に答える。頭痛とは無縁なのかしら。
「シエル湖に行った後は、どうするの?」
「さあ? きみは、どうしたい?」
「そうねえ。素敵な所なら、住んでもいいわ」
「……なるほど」
 考え事をしだすと、とたんに歩みが遅くなってしまう。こんな状態で、よくアルファンまでやって来られたわね。
 器用なのか、そうでないのか、よく分からない青年を一瞥して、黙々と下り坂を進んだ。
「このあたりに、魔物は出ないの?」
 沈黙が暇になって、声をかける。
「こちらに来る時は、ゴブリンがいたな」
 一瞬、心臓が跳ね上がった。
 そんな事になったら、今の私は何を仕出かすか分からないわよ?
 考え込んでしまい、歩調が少し遅くなった。
 奔放な風を受けて、草がざわめき立つ。竜巻きの前兆を思わせるような、鋭い風だった。
 空を切り裂く鋭い音がした。
 風圧は草を薙ぎ、視界を奪った。
「すごい風」
 腕を上げて目を庇い、急に立ち止まったセレストの背中にぶつかった。
「危ないわね!」
「魔物だ」
 緊張を孕んだ声に、黙って頷く。
 再び空気がかき乱され、目の前に、巨大な魔物が舞い降りた。
 蛇を思わせる細長い身体は、目測でも軽く十メートルはある。全身を覆う鱗は緑色で、顔と一対の大きな翼は竜のものに似ていたけれど、前脚がなく、猛禽のような細い二本の足を持っていた。
 細い胴に似合わぬ大ぶりな翼が、暴風の正体であることを示している。
「……ワイバーン!」
「知ってるの?」
 間合いを取るセレストから、少し離れる。
「ゴブリンどころじゃなさそうね」
「街道に出てくるとは……人の味を覚えたか」
 風を纏う魔物の鋭い眼光が、セレストを見据えた。
「昔、文献で見たことがある。飛行に適したドラゴンで……」
 言葉が終わる前に、彼の着ていた金属の鎧が、甲高い音を立てた。
 かなりの衝撃があったらしく、低く呻いて後ずさった。
 体勢を立て直しながら、素早く剣を抜く。
「勝てるの!?」
「きみは安全な所に!」
 戦士としての技量を疑うつもりはない。けれど、一人で挑むには、相手が悪すぎるようだった。
 うなりをあげて、長い尾が振り下ろされる。かろうじて剣でかわしたセレストが、細い胴に斬り掛かった。
 胴に切っ先が触れたものの、鱗を数枚剥いだだけで、皮膚には届かない。
 続けざまに、飛竜が攻撃に転じる。セレストは果敢に応戦していたけれど、剣を一度当てる間に、飛竜は三度彼を襲った。
 ようやく緑色の胴に赤い筋が幾つか出来た頃には、セレストの息は完全に上がってしまっていた。
 痺れを切らしたのか、あるいは痛みのためか、威嚇するように鋭い鳴き声をセレストにぶつける。
 最後の一撃を与えようと、狙い澄ました鋭い鈎爪が、庇いそこねた左腕を容赦なく襲った。
 肉の裂ける音と共に、鮮血が飛び散る。
 激痛を堪える表情で、苦しまぎれに描かれた弧は、硬い鱗に弾かれてしまった。
 容易に近付ける敵ではない。セレストに手が届く範囲に近付こうとしても、彼を犠牲にするだけだろう。
 傷を見れば、戦いの結果は明白だった。それ以上に、幾度となく人の死を目の当たりにしてきた記憶が警鐘を鳴らす。
 なかば無意識的に、両手をかかげた。
「あ……」
 これは、人を簡単に殺してしまう力。
 自分の手を汚さずに、一滴の血も見ることなく、悲鳴も絶叫も聞かずに済む。
 いったん上げた手を下ろしかけ、セレストの白い服に四散した血を見た。
「でも……他に方法を知らないのよ!」
 心の中にくすぶる感情を、むりやり押し込めた。
 素早く精神から余分なものを切り離し、異なる世界へと飛ばす。
 呼応した空気が細かく振動し、周囲の草が、せわしなく揺れる。
 激しい耳鳴りを伴って空気が乱れ、軋んだ。
「大気を統べる風の王よ! 汝が剛腕を以て、この者から慈悲を奪い給え!」
 空気の歪みから竜巻が生じ、翼竜を飲み込む。
 金切り声に似た咆哮も、竜巻の怒号に飲み込まれてしまった。
 意志を持った竜巻が、土埃を舞い上げ、草を引きちぎらんばかりに薙ぐ。それでも、竜巻の目的は、全てを呑み込むことではなかった。
 竜巻が音もなく消え去り、穏やかな草原の空気が戻ると、翼竜が白眼を剥いて草の上に倒れていた。
 禍々しくうねっていた長い尾が、力なく地面に落ちている。
「……すごい」
 低い呟きに、我に返る。
「精霊魔法だな。こんなに強力なものは、初めて見た」
 セレストが、自分の怪我も忘れて、魔物の死骸を眺めている。
「黙っているなんて、ずるいじゃないか」
「使いたくなかったんですもの」
 巨大な霜柱が、脳裏に浮かぶ。
 他人の口から出てくる言葉を聞いているようだった。
「この力を使って、私は、人を殺したのよ」
 口が、勝手に先走る。感情は過去を捕らえ、目の前の男には向けられていなかった。
「……なんだって?」
 セレストが振り返る。
「見ていられなかったのよ。神の理という鎖に縛られた、哀れな魂を。抗えぬ者は殺される。相入れぬ種族は殺しあう。それだけじゃないわ。生き長らえる為には、他の命を食う。命がある限り、殺すものか喰われるものか、どちらかでしかないのよ!」
 積もり積もった感情は、はけ口を求めて、ずっと私の頭の中に溜まっていたようだった。
 返される言葉、あるいは制裁を怖れた。私と正反対の場所にいる彼が、私の言葉に同意を示すはずがない。
「私も死ぬはずだった。あなたが、あらわれるまではね」
 ようやく、視点がセレストに定まった。けれど、心を押し流そうとする激流は、まだ胸の内を流れていた。
「天秤が、私に味方をしたのよ。弱きものを屠る力があるから、死を選ぶことは許さなかったんだわ」
 セレストが、ようやく口を開いた。
「……色々あったんだな」
 私の剣幕に対して、彼の反応は、ずいぶんと淡白で、間延びしたものだった。
 剥き身の剣をぶら下げていることも、反対側の腕にひどい怪我をしていることも、すっかり忘れているようだった。
「きみの話を突き詰めれば、命あるもの全てが平等であるには、死をもってしなければ、あり得ないという事になる」
「さすが、話が早いわね」
 私があれだけ喚いたのに、よくそこまで冷静に考えられたわね。筋金入りの賢者向きだわ。
 正直言って、戦意を削がれた。
「僕の“救い”の解釈だと、きみに与えられたのは“贖罪”だ」
「贖罪? 天秤のさだめた行いが、当然だった結果が、私の罪だと言うの?」
「本当に、抗えぬものが死んで当然だと思っているなら、君はそこまで思い詰めたりはしない。罪の意識があったから、ずっと引きずっていたんだろう?」
「それは……」
 私がどう思っていようと、神の知った事じゃない。たとえ罪に泣き濡れようと、神は私に獲物を与えるだけ。
「私には、受け入れられない」
「あくまで僕の解釈だ。気に入らないなら、独り言だとでも思ってくれればいい。きみは、罪を償うことを許された」
「私は、そこまでご都合主義じゃないわ」
「神の力に、人の意志は無意味だ。そうだろう?」
 どんな風に解釈しても、神によって生かされている現状は変わらない。もっと楽に生きろとセレストは言う。
「矛盾しているわ。他の命を奪って口にしながら、その罪を償えですって?」
「確かに、生きていく為には、動物を殺して食べる事も必要だ。それがつらくない訳じゃない。でも、僕だって、さっきは魔物の食事になりかけた。きみは、何故僕を助けたんだ? 弱きものが食われて当然なら、きみは僕を助ける必要なんかなかった」
 セレストを睨む。
「……とんだ詭弁家ね」
 話題をすり替えられてしまったのは不本意だけど、これ以上、空論の応酬を続ける気にもなれなかった。
 セレストは、ようやく剣を鞘に戻した。
「褒め言葉ととらせてもらうよ」
「どうして、私を許す気になったの? 邪悪な魂を啜れば、その白い鞘の剣だって喜ぶでしょうに」
「救えると思ったからだよ。僕の手に負えなくなった時は、斬る」
 穏やかな表情だったけれど、青い瞳は笑っていなかった。
「そうね。それなら、お願いしてもいいわ」
 心に立った波が、ゆっくりと引いていく。
「その必要がなくなった時に、剣を捨てることにするよ」
 言葉の意味を推し量っているうちに、セレストがこちらにやって来て、大きく傷口が開いたままの左手を突き出した。論議が長引いたせいで、流れ出た血はほとんど乾いてしまっていた。
「偉大なる精霊使いの恩恵を賜りたい」
「……高いわよ」
「では、魔物が食いそこなった僕の(きも)でどうだろう?」
「いらないわ」
 なんとか笑いをこらえて機嫌の悪い表情を作ると、生命を司る精霊に呼びかけた。

÷÷ つづく ÷÷
©2003 Haruka Mashiba
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