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§緑陰の柩:第6章§

風舞う沃野 (1)

著:真柴 悠

 王都アルファンを出て、十日が過ぎた。
 なだらかなようで上り坂が多く、初めて徒歩で遠方を目指す身体には、負担が大きかった。
 アルファンは山岳地帯を含んでいるせいか、土地の起伏が激しく、気候も場所によって大きく異なる。一日のうちの温度差も激しく、日中が汗ばむ陽気でも、夜には吐く息が白くなるほどだった。
 長い坂を登りきり、私の息が上がっているのを見て、セレストが足を止めた。
「休憩にしよう」
「まだ歩けるわ。もうすぐ夕方だし、進める所まで進んでから、野営の準備をしましょう」
「でも、ここを過ぎるとまた坂だ。今日は、ここでいい」
 北側に、山地に続く森がある。
 ふと、月夜の出来事を思い出した。
「ねえ。山賊、出ないかしら」
「山賊?」
 荷物を確かめながら、セレストが聞き返してくる。
「サリアに、そんな気合いの入った悪党が、いるわけがないじゃないか」
「でも、見たわ。山の中から出てきたの」
 セレストが首をかしげる。
「おそらく、北から流れてきたんだろう。どうせ、狙うなら王都付近の街道だ。こっちには来ないよ」
 そういえば、言葉に変ななまりがあったかもしれないわ。
 一連の経緯に思いを馳せていると、セレストが、荷物の中から、白い表紙の分厚い本を取り出した。
「何の本?」
「シルファスの教典だよ」
 露骨に眉を寄せてしまった私に、セレストが笑った。
「硬そうな枕ね」
「燃やしたりするなよ?」
「燃やす価値もないわ」
 セレストは、王都を出てから、口数が減った。多分、こちらが本当の彼なのだろう。
 時間を決めて祈ることを別にすれば、居心地の悪い存在ではなかった。むしろ、その剣を頼っていたかもしれない。
 出会ってから一度も剣を抜いた所を見た事がないけれど、かなりの修練を積んでいるであろう事は、気配で分かった。

 日も暮れかけ、野営の準備を始めた頃だった。
「ねえ、どうして、剣を持ったの?」
 思いきって、聞いてみた。
 セレストが、薪を集める手を止める。
「似合わないか?」
「……ローブの方が、似合いそうだわ」
 悪い意味で言ったんじゃないけど、誤解されなかったかしら。
 セレストは少し間をおいて、再び手を動かし始めた。
「僕は幼い頃に、自分の意思でシルファス神殿に入った。外へ巡礼に出たかったから、神官戦士の道を選んだ」
「あら、神官戦士でなくたって、巡礼に出ている司祭なら、たくさんいるじゃない」
 ここへ来るまでにも、何度かすれ違った。戦士と同行していたり、商隊の列に加わっていたりと形は様々だったけれど。
「防衛の為に剣を選んだ訳じゃないよ」
 集めた薪に、火をつける。
「多くの人と渡り合うには、剣が必要な時もある」
「あ……」
 兄さんの言葉と、違う。
 多分、どちらも正しいのだろう。問いのない答えに過ぎないのだ。
「軽蔑するか?」
「……」
「構わないよ。僕に、武器にまさる力がなかっただけの事だ」
「そんな……」
「そんな奴に、布教の資格はないのかもな」
 薄闇の中、あかく照らされた白いおもてが、自嘲的な笑みを浮かべた。
 炎のはぜる小さな音が、流れていく時を告げる。
 視線を落とし、膝の上で握った拳を見つめた。
「自分の正しいと思うものがそこにあるのなら、それで構わないんじゃないかしら」
 以前の私なら、瞬間的にきつい言葉を吐いていたかもしれない。
「だって、天秤は、救いは、平等じゃないんでしょう? あなたが自分の正義を信じるのなら、剣を持とうが毒矢を持とうが、私は咎めたりしないわ」
 セレストが、こちらを見た。驚いたような表情が、微苦笑に変わる。
「毒矢はさすがにまずいな」
「人を傷つけるのには、違いないわ」
「……そうだな。殺す為の道具だ」
「それでも、いいの?」
「分かっていても、どうにもならない事だってある。今は、必要なものだと信じている」
「そう」
 考え疲れてしまって、さっさと毛布を出した。
「先に休むわ」
「明日にはオストレイクに着く」
「どんな所なの?」
「景色の綺麗な所だ。住人も環境にはうるさいから、気をつけた方がいい」
 セレストの言葉を聞き終える前に、眠りに落ちてしまった。



 岩の目立つ曲がりくねった道を抜けたかと思えば、広大な草原が視界に開けた。
 大きな一枚の布を広げたような、一面の緑。
 妖魔の城を出てから殆ど山の中にいた私にとって、その光景はまるで楽園のように思えた。
「すごい。草原が、湖みたい」
 馬鹿みたいに“すごい”と連呼する私を見て、セレストも笑っていた。
 緑の草原から、白い冠を頂いた名峰エルハーベンへ、そしてその上に真っ青な空が続いている。
 そんな草原の中に、町があった。

 壮麗な景色とは裏腹に、オストレイクの街並は、閑散としたものだった。軒を連ねる家々はほとんどが農家だと分かる。
 小さな神殿の前の広場では、大きな鎌を持ったおじさんが二人、立ち話をしていた。これから牧草を刈りに行くのかしら。
「酒場にでも入って休憩しようか」
 立ち並ぶ店はどれも小規模だったけれど、宿屋は立派なものが多い。
 その中の、それほど大きくない酒場を選んだ。それでも、内装はアルファンの酒場よりずっと洒落ていて小奇麗だった。
 幾人かの人がいて、それぞれに集団になっている。彼らは明らかに旅の人たちだった。
 細長いテーブルの真ん中を選んで、セレストが椅子を引く。
「いらっしゃい!」
「エールを一杯。それから、肉と野菜を適当に」
「了解。今日はいい鶏が入ったんだ! 運がいいねえ、お二人さん!」
 恰幅のいいおじさんだった。雰囲気がやたらと明るい。
 セレストの前にジョッキを置いて、厨房に入っていった。
「なんだか変な町ね」
 声をひそめて告げると、セレストが笑った。
「人が?」
「そうじゃなくて、町の雰囲気が……農家ばかりなのに、宿が多いわ」
「ああ、観光で生活しているようなもんだからな」
「観光で?」
「はいよ、若鶏の炭火焼きと野菜炒め、お待ち!」
 野太い声と共に、料理を盛った皿が勢い良くテーブルに置かれた。
「兄さんたちも観光かい?」
「観光客に見えますか?」
「見たところ聖職者のようだが、それにしちゃあ華々しいじゃないか」
「新たなる挑戦、とでも言えば分かって頂けますか?」
「はっはっは、あまり焦りなさるなよ。オレでよきゃあ相談に乗るぜ」
 セレストと酒場の主人の会話が、耳を抜けていく。壁にかかった一枚の絵に見入っていた。
 草原と山と空。単調な色彩は、ともすれば何の面白みもない絵になってしまいそうだったけれど、繊細な筆の運びと、鮮明に記憶された実際の景色が相まって、美しかった。
「おじさん、あの絵、エルハーベン?」
「ああ? そうだが」
「街道から見たものと、ちょっと違うわ」
「おう、よかったら街の東側の丘に登ってみな。同じ風景を拝めるぞ」
「その丘って、すぐに行けるの?」
「そうだな……30分も歩けば着くか」
「後で行ってみようか」
「ええ」

 草いきれの立つ緑の中を、丘を目指して進む。草原と同じく草に覆われた、一本の木も生えていない、標高50メートル前後の丘だった。
 丘の一番高い所まで来ると、背後の景色を振り返った。
 一点の曇りもない草原が、山に向かって延々と続いている。その向こうには、一番高いエルハーベンを筆頭に、ここに来るまでに毎日のように眺めていた山々が空に突き刺さっていた。
「こんなに綺麗な場所があったなんて、不思議ね」
 鮮やかな緑の海と、優雅な曲線をえがく稜線を、少しでも長く目に焼きつけておきたくて、食い入るように眺めた。
「この草原は、オストレイクの人たちのものなんだ」
「草原が?」
 セレストが唐突に告げ、足を止める。
「元は、土の色が目立つ痩せた土地で、木も生えていた。昔から自然に草原だった訳じゃない。オストレイクの人たちは、木を抜いて、石をどけて、少しずつ草原を広げていったんだ」
「……どうして、そんな事をしたの?」
「きみも見ただろう? みんな農家だ」
 オストレイクは農業や牧畜を営む人がいて成り立っている。農業分野ではかなり徹底した保護主義で、貿易においては隣の自由都市レダからひんしゅくを買っているらしい。
「彼らが農耕をやめてしまったら、この緑も荒れ地に戻るだろう」
「何故、そこまでする必要があるの? そんなに、この景色が好きなのかしら」
 ほかに理由が思い浮かばない。
「僕のいた国は、益があると見なせば、古くからの生活を何のためらいもなく捨て去って、新しいものを築いてきた。ここの人たちは、何百年も前からの生活を大切に守りながら生きている。だから、観光だけじゃないんだ。徹底した文化、生活への帰属意識の高さ、自治の意識の高さ、故に自分に対する明確な存在意識へのこだわりこそここに見てとるべきなんじゃないかと思う」
 途中から、自分の世界にひたってしまったのか、考え込むように言葉を続けた。返す言葉も思い浮かばずに黙っていると、金色の頭が揺れた。
「ごめん。僕の悪い癖だな」
「あなた、賢者でも目指した方がよかったんじゃない?」
「よく言われたよ」
 苦笑するセレストが、なぜか遠い場所にいるような気がした。
 そして、そんな風に感じた自分に驚く。
 つねに他人と距離をおいてきたのは、自分自身なのに。
「景色はいいけれど、あんまり住みたいとは思えないわね」
 気持ちをそらすために、わざと話題を変える。
「だから、観光地なんじゃないか」
「うまい商売だわ。この地方の人達は、形は違えどやっぱり商売が上手なのね」
「まあ、あくまで自分達の力で生活する事が第一なんだろうけどね。この景色を外部の人にも明け渡しているのは、むしろ寛容な気がするよ」
 青い空を、綿花のような雲がゆっくりと泳いでいく。風が草を撫でる音だけが、静かに流れていった。
「随分、詳しいのね」
「サリアの人たちの気性はアリステアでも有名だからね。困る事のないように、あらかじめ調べておいたんだ」
「そんなに違うものなの?」
「きみと僕ぐらいには」
 私は、サリアで育った訳じゃない。
 海の向こうにある、妖魔の城。ずっと遠い島。いくらセレストでも、きっと名前も知らないわ。
「土地の違いを知るのも、旅の楽しみの一つだ」
 いつの間にか、青い瞳がこちらに向けられていた。
 闇を射すくめるような、まっすぐな光に、どきりとした。
「ずいぶん、明るくなったな」
「……私が?」
 追い討ちをかけられたような気がする。
「仕方がなかったのかもしれないが、初めて見た時は、うつろな顔をしていた」
 セレストが、再び草原に目をやる。
「ショックだった。“自分が死んでも、誰も悲しまない”なんて言葉を聞いたのは、初めてだった」
「死を受け入れる気持ちに、変わりはないわ」
「……そうか」
「けれど、今は、目的があるから。私も初めてなのよ。自分から目的をみつけて行動するのは」
 セレストが微笑む気配がした。
 たとえ、一人でこの景色を見ていたとしても、こんなに心を打たれはしなかっただろう。
 傍にいるだけで、心が満たされていく存在。
 これは幸福だ。そう確信した。
「私は、あなたに出会って、孤独を知った」
 当たり前だと思っていた虚無感。これに耐えてこそ、強くなれると信じていた。
「ばかみたい。今まで、何をしていたのかしら」
 失笑がこぼれる。
 自分の内のものが簡単にくつがえされたというのに、動揺はなかった。むしろ爽快ですらあった。
「ばかじゃないよ。大切なことだ」
 セレストの笑顔は、たぶん、今の私と同じものだろう。
「素敵な旅になるといいな」
「神様に、お祈りしないの?」
「自分の力で手に入れるものだ」
 静かに、けれど力強く告げたセレストの横顔から、なぜか目が離せなくなってしまった。

÷÷ つづく ÷÷
©2003 Haruka Mashiba
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