街道を、のんびりと歩く。
時折、柔らかな風が日射しを和らげるように肌を撫でていく。
セレストに連れられて山を下りてから、一夜を明かした。
交代で見張りをしようと約束したけれど、彼は一度も私を起こさなかった。
「いい天気だな」
「少し前までは、ずっと雨が降っていたわ」
「もともと雨の多い地域だし、こんな日は皆、外に出ているんだろうなあ」
こちらの地方は平和だ。セレストは、しきりにその言葉を口にした。
「自然が豊かだから、魔物もわざわざ人を襲ったりしないんだろうか」
「毎日魔物に追われて生活していたの?」
「そういう訳じゃないけどさ。あんな簡単な検問で街がやっていけるのには驚いたよ。東じゃ、ああはいかない」
「ふうん」
私も、それなりに恵まれた環境だった訳ね。
西の空が赤く染まり始めた頃、大きな街門をくぐった。
誰か追いかけて来るんじゃないかと思って落ちつかなかったけれど、どうやら杞憂らしかった。
少し前に連れて来られた時とは、まったく違った場所のように思えた。
広い道を行き交う人びとが、こんなに活気に満ちていたなんて……
道の左右に店が立ち並び、客を呼び込む声が飛び交う。
前に連れて来られた時は、周囲を見る余裕もなかった。
今、余裕があるのは、どうしてだろう?
ちらりと、隣を歩く青年を盗み見る。
「ねえ」
セレストが、こちらを見る。
「もし、私が逃げたら、どうする?」
「そりゃあ、追いかけるだろうなあ」
「どうして?」
「理由を聞くのは、こっちだろう? なんで逃げたのか」
「……それもそうね」
今は、自分の意志でこの街にいるのよ。逃げる必要なんてないんだわ。
セレストは何か目的があるようで、立ち並ぶ店には寄らずに、まっすぐ歩き続けた。
街を分断するように流れる川にかけられた大きな橋を過ぎ、道が分岐した所で、セレストが立ち止まった。
「寄る所があるんだ。すぐに済むから、待っていてくれるかい?」
「どこに行くの?」
「シルファス神殿だよ。これでも一応、伝道師を志す者だからね。……どうかしたのか?」
まさかシルファスの信者だったなんて。この人も、天秤に縋って生きているのかしら。
「どうして、シルファスなの?」
「え?」
「……天秤に祈ったからといって、幸せになれる訳がないわ」
いつだって強者に味方する天秤が、弱者を救う訳がない。
「べつに、幸せになりたいから祈る訳じゃないよ。光の神の教えに従い、その教えの中で生きるんだ」
「強き者が世を支配することが、光の神の教えなの?」
青い瞳を睨む。
驚いたように見開かれていた瞳が、ふっと和らいだ。
「きみは、強いんだな」
「あなたは、弱いの?」
「人の心なんて脆いものだ。だから、神の存在が必要なんだ」
セレストは、道の脇の短い草の上に腰を下ろした。
「こんな貧しい暮らしでも、祈り続けていれば、いつかは報われる日が来るだろう。そうやって何かに縋っていないと生きていけない人もいる。皆が皆、強い訳じゃない」
「その人たちは、救われないの?」
「救われているだろう? 縋る場所があるんだ。きみの言う幸福は、他人や神に求めるのではなく、自分自身の手でつかみ取るものじゃないのか?」
背中に冷水をかけられたような衝撃だった。
持っている世界の広さが違う。
きっと、様々な人たちを見てきたんだわ。私も短い間にいろいろ体験したけれど、人と関わることは殆どなかった。飢えや悲しみと共に生きる人たちが、どんな風に暮らしを営んでいるのかも知らない。
立っているという実感が薄れてしまって、セレストの隣にへたり込んだ。
「けど……それじゃあ、神様にとっては都合が良すぎるわ」
「仕方ないよ。相手が違う」
納得できなくて押し黙っていると、突然セレストが笑い始めた。
「……なによ」
「いや。僕は、信者失格かもしれないなあ」
「いいじゃない。私は天秤が嫌いだわ」
立ち上がって、セレストを促す。
「用があるなら、さっさと済ませてくればいいわ」
「ありがとう」
「いなくなってるかもしれないけどね」
「きみは、そんな事はしない」
「大した自信だわ」
呆れた口調で告げて、セレストの背中を見送ると、道沿いの建物の壁にもたれかかった。
目の前を通っていく人たちに目をやる。
住民らしい軽装の人や行商に混じって、旅装束に武器をぶら下げた人を何度も見かける。
ついこの間、私をこの町に連れてきた人たちの顔はもう忘れてしまったけれど、まだこの街にいるのかしら。
セレストは、すぐに戻ってきた。
こちらを見た後、隣の大きな建物を指す。
「食事にしよう」
そう言って入ったのは、最初にこの街に来た時に連れて来られた場所と同じような雰囲気の建物だった。
食事時ということもあって、なかなか盛況だった。大人数で盛り上がっているテーブルもあれば、数人で話し込んでいるもある。部屋の隅では、竪琴を持った女の人が歌声を上げていた。
珍しい光景に足を止めると、セレストが首をかしげた。
「酒場は初めてなのか?」
「少し前にも来たわ」
食事の時間ではなかったけれど。
たくさんの人がいるテーブルではなく、部屋の壁と並行した細長いテーブルをセレストは選んだ。
「酒は?」
「いらない」
とにかく賑やかだった。
騒がしい場所で食事をした事のなかった私は、運ばれてきたものに、あまり手をつけられなかった。
「こういう場所は苦手か?」
「そうみたい。落ちつかないわ」
「じゃあ、神殿に行くか?」
「もっと嫌」
からかうようなセレストの声に、顔をそむけて温野菜をかじった。
食事を終えると、セレストは道具袋から地図を出した。
「今、僕たちがいるのは、ここだ」
唐突に、地図の一点を指す。
「目的地は、シエル湖の南東の……このあたりかな」
「ずいぶんと、深い森なのね。大丈夫?」
「ああ。湖のそばに小規模な集落があると聞いている。森自体は生命が豊かで、外からも狩りに来る者が稀にいるらしい」
「ふうん」
「街道を使おう。アルファン領のオストレイクから、東の自由都市レダに入って、そこからまっすぐ森を北上する」
湖の西側、私たちが今いる所からは、けわしい山脈が邪魔をして通行どころか侵入も難しいらしい。
「けっこう遠回りね」
「オストレイクもレダも、なかなか見ごたえのある都市だ。急ぐわけでもないし、楽しい旅にしよう」
「私といても、楽しくないわよ」
「どうして?」
「……なんとなく」
「それは僕が決める事だ。きみは、僕に付いて来るかどうかを決めればいい」
「なかなか挑戦者ね」
「そうでなければ、仮にも神の名を背負ったやつが、ここまで出てきたりするもんか」
笑いながら、酒の入ったグラスを手に取った。
笑うと、少し幼い顔になる。小さな発見が嬉しくて、私も笑った。
何故、そんなふうに思ったのかは、分からなかった。
食事が終わって一段落つくと、セレストは待ち合わせの時間を言い残し、神殿の世話になると言ってさっさと出て行ってしまった。
翌朝、旅に必要な道具をそろえる為に、街へ出た。
買い物なんて、手順は兄さんから聞いた事があったけれど、した事がないし、そもそも何を買えばよいのかも分からない。
全て、セレスト任せだった。
「短剣ぐらいなら、扱えるか?」
武器を並べた店の前で、セレストが立ち止まる。
精霊魔法を使う気はなかったけれど、長年の習慣のせいか、金属には抵抗があった。いずれにせよ、できれば戦闘には立ち会いたくない。
「刃物は、あなた一人で十分でしょう? 私は、傍観させて頂くわ」
「防具は?」
「いらない。私は、死に抗ったりしない」
私の言葉に慣れてしまったのか、セレストは薄く笑っただけだった。
「星になっても、僕を恨むなよ?」
「私は……」
星にはなれないわ。
そう続けようとして、口をつぐんだ。
魔王の娘であることは、明かせない。それに、私がいなくなっても、星として記憶にとどめてくれる人が、一人くらい、いてもいいんじゃないかと思った。
「私が恨むのは、おごるものに傾く天秤と、それを持つ女神だけよ」
「一貫していて結構」
信奉する神をけなされた筈なのに、相手の態度は淡白なものだった。
拍子抜けしたのが顔に出たのか、セレストが不敵な笑みを浮かべた。
「僕が不良信者でも、きみに文句を言われる義理はないからな」
「ちょうど良かったわ。論旨の違う相手と喧嘩できるほど器用じゃないもの」
負けじと言い返して、歩みを進めた。
松明や毛布、保存食なんていうものまで買い込んで、一息ついた頃には、昼を過ぎていた。
買い物を終えると、昨日私が泊まった部屋に戻って、荷物をまとめる作業にかかった。
「そんなに遠い所なの?」
ものものしい荷物に目を見張る。
「三日の旅でも、この位は必要だ」
「……安全な道なんでしょうね?」
「もちろん」
満面の笑みを向けられて、何も言い返せなくなってしまった。
面白いことがあって笑うのではない、人を思いやるような、優しい笑顔。
私は、こんな風には笑えない。
「支度が終わったのなら、さっさと行きましょう。いいかげん、静かな所に行きたいわ」
複雑な気持ちを振り払うように、無意識に強い口調で告げてしまった。
機嫌を損ねたんじゃないかと思って、相手の顔色を伺ってみたけれど、セレストは鷹揚に頷いただけだった。
「そうだな。じゃあ、出ようか」