≪REV / EXIT / FWD≫

§君の心に風の戻る日:第一章§

凍結 (3)

著:林田ジュン

 廊下の奥、突き当たりになっているところに小部屋があった。今にも外れそうな扉には「尋問室」と書かれた板切れがつけられてある。開けて中に入ると、粗末な椅子に座らされた女の子が下を向いて必死に泣き声を噛み殺していた。背後の壁には、誰のものとも分からぬ黒く乾いた血痕が、不気味な染みを残している。
「見せたかったのはこれなんスけどね」
 女の子の肌はあちこちが裂け、痛々しく血を流していた。彼女の隣には鞭を手にした女性の親衛隊員が控えている。
「よう、ヒルダ。やってるかい」
 隊員に声をかけ、女の子を覗き込むと、
「あーあ。こんなに怪我させちゃあ使い物にならねぇだろうが。ガキは老人よりよく働くぜ」
 ペルゼンは先程子供を撃った中尉への文句も兼ねてそう言った。
「ならば表の看板を拷問室に書き換えれば済むことだ」
 予想外の返答をした中尉に、
「今度上官に頼んでおきますから」
 ヒルダは唇を少し吊り上げて女の子に向き直った。
「中尉。これは逃走中のユダヤ人のメンバーのひとりと思われる子供です。目撃者の情報によるともうひとり女がいたということでしたが、そちらは取り逃がしたとのこと」
 そこまで一気に言うと、彼女は鞭で女の子の頬を強く叩いた。血が滲み、女の子は小さく声をあげた。
「しかしこの通り頑固で何も話しません」
 ヒルダは舌打ちして女の子を椅子ごと力任せに蹴飛ばした。
「叩いたって無理だ。俺に任せな」
 ペルゼンはヒルダの手から鞭を奪い取り、片付けておくように言ってリヒターに手渡した。リヒターは一礼して踵を返す。
「あいつ、これから晩飯食うのかな」
 どうでもいいことを呟き、ペルゼンは床に転がったままの女の子を座らせてやる。
「で、お嬢ちゃん。悪かったな。もうぶったりしねぇから喋ってくれよ」
 努力して優しい声を出す。
「喋ってくれたらあんたに最高のスープをご馳走してやるよ。外は寒かったんだろ?温まるぜ?」
「スープ?」
 長いあいだ口にしていなかった料理の名前を聞いて、女の子が顔を上げた。
「それだけじゃねぇ。白いパンもりんごの砂糖漬けもウインナーも黒砂糖のキャンディーだってあるぜ。どうだい?悪い話じゃねぇだろ?」
 一気にたたみかける。女の子の瞳が輝いたのは見ていてすぐに分かった。
「うまいな」
 中尉の台詞にヒルダは苦笑した。
「それ、本当?」
 上目遣いに、女の子。唾を飲み込んだらしく、小さく喉が上下した。
「嘘じゃないぜ。何ならチョコレートだってサービスするがね」
 軍曹は優しく囁く。女の子は、また唾を飲み込んだようだった。
結局彼女は誘惑に勝てなかった。中尉は壁にもたれたまま、そしてペルゼンは女の子の頭を撫でながら彼女が漏らす仲間の居場所を聞いていた。中尉の腕時計の秒針が、やけに大きな音を立てていた。
「本当にキャンディーくれるの?」
 全部話し終わった女の子が、先程あげられた食べ物の中から大好物を選んで聞き返す。「もちろんだ。あんたはいい子だからな」
 言い終わらないうちにペルゼンはズボンのポケットに右手を突っ込み、
「運がいいな。三つも入ってたぜ」
 約束のキャンディーを取り出した。それを見て、幼い顔がいっそう輝く。
「待て」
 不意に割って入ったのは中尉だった。中尉は彼女を見下ろす姿勢で立ち、ペルゼンからキャンディーをひとつ取り上げて言った。
「こんなものよりもっといいものをくれてやる」
 女の子はさっきよりも嬉しそうに笑った。中尉の右手は腰の銃に伸びていた。
「なに、くれるの?」
 我慢できずに彼女が尋ねた。その額に、硬いものが押し当てられる。
「え?」
 笑顔が凍りついた。瞳は予期せぬ驚愕に大きく見開かれ。中尉は耳元で悪戯っぽく囁いた。
「天国への特急列車のチケットだ」
 直後響いた短い銃声。
「俺は別に殺す気はなかったぜ」
 ペルゼンはまた視線を少し逸らせていた。行き場のなくなった飴は、仕方がないのでヒルダに投げてよこす。彼女は飴と死体とを交互に見比べてどうしたものかと迷っていた。 ただひとり、中尉だけが平然と眺めていた。
 ひとつの生命の終焉を。
「くだらない」
 吐き捨てるように呟いた。
 信じるものは何ですか。
 心の壊れたにんげんたち。
「場所はわかった。行くぞ」
 短く指示する。ペルゼンは少し驚いたようだった。
「今からですかい?」
「昼も夜も関係ない。念のため陸軍一個小隊を動員する。大佐の許可は得てある」
 必要なことだけを答えると、中尉は部屋を後にした。慌てて後を追うペルゼンを見送り、ヒルダは飴と死体の処理に悩んでいた。


 いつになったら夜明けは来るの?
 いつになったら朝は来るの?
 ねぇ、いつになったら?私はもう、待ちくたびれた…。
夜。
 木々の間から丸く白い月が見え隠れしている。どこかの枝で梟が低く鳴いている。影は動かない。
 支配するのは静寂。ただ、時間だけが過ぎていく。
 少女たちは狭い洞穴の中で、体を寄せ合って寒さを紛らわせていた。そして少女は首をめぐらせてみる。親戚や近所に住んでいた人たちの疲れきった顔が月明かりに照らされている。しかし、そこにエヴァの姿はない。妹が戻ってきているかもしれないとの願いは空しく消えただけだった。少女は誰にも聞こえない声でそっと妹の名を呟いた。
 怖かった。
 追われる恐怖や夜の闇よりも、ここにエヴァの姿がないことが。
 少女は己をきつく抱き寄せ、隣にいる兄、ペーターを見た。
「どうした?寒いのか?」
 そう聞いた兄に、少女は短くかぶりを振る。
「さびしいの」
 何が、かは自分でもよく分からない。ただ、心にぽっかりと穴があいたような気分がする。少女は思い出したように上着のポケットに細い手を入れた。小さなビスケットが一枚。少女は微笑する。
「兄さん。半分食べる?」
 二つに割って、大きいほうを差し出した。兄はそれを無言で受け取り、口に運んだ。それだけのことなのに何かが嬉しくて、少女もビスケットを噛む。ほのかな甘さが、舌の上に広がった。
「エヴァはきっと帰ってくる。大丈夫だ」
 コートの襟を寄せ、ペーターが誰に言うともなしに独りごちた。もしかしたら自分に言い聞かせているのかもしれない。
 外では乾いた葉が風に揺れ、悲しげなメロディを奏でている。
 空気がさびしい。
 風が、哀しい。
 温もりが、ほしい。それにすがり付いて生きていけるほどの温もりが。
 そして少女は兄にもたれてみた。コートを通して兄の体温が伝わってくる。安心できる。こうしていると。
 少女は静かに瞳を閉じた。
 夜空の星が消え、一切の闇が視界に広がった。少し休もう。この暗黒の中で。次に目が覚めたとき、何もかもが元通りになっていればいいのに。
 無理なことだとは思いつつ、少女の意識は夢の中に落ちて行った。

「起きろ!」
 少女の意識を掻き乱したのはペーターの声だった。声は焦っているようだ。
「親衛隊だ!見つかった!」
 少女は覚醒した。眠りに落ちるときとは比較にならない速さで意識が戻ってくる。ジープの明かりに照らされて眩しいはずなのに、そこから視線を逸らすことができない。駆け抜けたのは、今までにないほどの戦慄だった。
 死神が、やってきた。
 狂気と絶望を引き連れて。
「案外早く見つかりましたね」
 ジープに並ぶように停車したバイクの上で、ヒルダが単調に呟いた。その声に答えるかのように兵士たちが銃の安全装置を解除した。
 少女は身を縮め、兄の顔を覗いた。
「兄さん」
 声が震える。どうなるの?私たち。殺されちゃうの?死ぬの?
「かくれんぼは終わりだぜ」
 エンジン音の停止したジープの運転席から降りた男が、タバコの火をつま先でもみ消しながら言って、助手席を振り返った。
 梟は、もう鳴いていなかった。
「捕らえますか。それとも殺りますか?決定権はあんただぜ、中尉さん」
 そして、自分は関係ないとでも言うようにペルゼンはぐしゃぐしゃと髪を掻いた。
 少女はからからに乾いた唇を舐め、喉を大きく動かす。心臓が、壊れそうな音を立てていた。
 月は静かに地を照らす。
「殺すのは抵抗してからでいい」
 姿勢は変えず、中尉が答える。その一言で兵士たちは一斉に動いた。少女は背後で誰かが怯えた声をあげたのが分かった。もう、逃げられない。終わるんだ、みんな。
「ふざけるな!」
 その声は思わぬところからあがった。そしてその声が彼女の兄のものだと理解した時には、ペーターはすでにドイツ兵のほうに走り出していた。泥だらけの靴が大地を蹴る。踏まれた落ち葉が湿った音を立てた。
「兄さん!だめ、やめて!」
 少女の絶叫とほぼ同時。
 ペーターは懐から短銃を滑らせた。どこで手に入れたのかは彼女の知る限りではなかったが、それは月明かりを受けて一瞬冷酷に輝いた。
「やめて、戻って!」
 制止の悲鳴。しかしそれは加速したペーターには届かなかった。
 そうして、銃声。
 先に火を吹いたのは兄の銃だった。近くでライフルを構えていた兵士が右肩から血を噴かせて声をあげた。
 時が、止まり。
 僕はただ、生きたかっただけなんだ。
 全員の驚愕の視線がペーターに集中する。彼は肩で大きく息をして、自分の手を見つめていた。
 僕はただ、生きたかっただけなんだ。それだけなんだ。
「中尉!」
 ヒルダが我に返って高い声を出した。中尉はそれに答えるかのように銃口を上げ。
 夜の森に、一発の銃声が木霊した。
 ボクハタダ、イキタカッタダケナンダ…。
「…いや…」
 少女は耳に誰かの声を聞いた気がした。しかしそれは自分のものだった。
 死。
 死とは消滅。存在自体が消えること。
 死。
 死んだ。
 兄さんが死んだ。
 大好きな兄さんが死んだ。
 さっき一緒にビスケットを食べた兄さんが、死んだ。
「兄さん」
 瞳に溜まりきらない涙が一筋、少女の泥で汚れた頬を伝った。ジープのライトがぼやけ、ドイツ兵の姿が陽炎のように揺れて見えた。もうどうしていいか分からなかった。
「?」
 ペルゼンは小首をかしげた。少女がひとり、こちらへ来る。彼女は、一時間ほど前に中尉が撃った女の子と顔立ちが似ている気がした。彼女はなおも近付いて来る。別に何をするわけでもなく幽霊に似た足取りで。何も見てない虚無の瞳で。少女の足音は湿った落ち葉に吸収されて全くの無音だった。
 そして少女は淡々と血の海を渡る。白い足に絡みついた血の赤が妙だった。
 兵士たちが慌てて銃口を向ける。しかし少女は止まらない。誰かが引き金に指をかけ。「待て」
 中尉はそれを片手で制し、ジープを降りた。
「どうしたんスか、中尉さん。まさかあの娘に惚れちまった、とかいうんじゃねぇだろうな?」
 ペルゼンの冗談は無視される。中尉の鋭い視線が少女を貫き。それでも少女は止まらない。
 知っていますか?
 今流した涙の味を。
 二人の肩がすれ違う。そして数歩。静かな足音が消えた。少女の髪を、夜の凍った風が撫でて行った。
「知っていますか?殺されるために生まれてくる人間なんて、どこにもいないんです」
 透き通った声が少女の口から漏れる。それは静かな森に小さく反響して消えて行った。口調はまだ、空虚だった。
 知って、いますか?
「ふん」
 中尉は鼻先で笑い飛ばす。
「貴様らは人間か?」
 一陣の風が抜けた。少女はそれを、沈黙という形で無視した。
 知らないでしょうね、あなたたちは。
 分からないでしょうね、あなたには。
 心はからっぽ。
 呼吸も忘れて、ただ寒い。
 中尉さん。そしてあなたが可哀想。
「あなたはきっと、生命を知らない」

「捕らえろ。急げ」
 張り詰めた闇の中で中尉の声が動き、今度こそ誰も抵抗しなかった。少女の肩をドイツ兵の太い腕が掴んだ。一度は乾いた涙が再び溢れ、頬を滑る。
 そして最後に一度だけ、少女はもう動かない兄を振り返った。
 月明かりの下、木の葉たちは凍りついたようにじっとしていた。


 少女は収容所で妹が殺されたことを知った。
 そして、その日から一年が過ぎた…。

÷÷ つづく ÷÷
©2000 Jun Hayashida
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