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§君の心に風の戻る日:第二章§

そして少女は炎を見た (1)

著:林田ジュン

 夢を見ていた。
 夢はひどく懐かしい色をしていた。その夢の中心にひとりの少年がいた。俺は彼に見覚えがあった。
 あれは俺だ。
 あれは遠い過去の俺の姿だ。
 幼い俺は大好きな玩具を持ってはしゃいでいる。俺の後ろでは暖炉がぱちぱちと音を立て、俺の隣には母さんの姿があった。
 母さん。
 俺にとってのこの女性は、俺がまだ四つのときにこの世界からいなくなった。確か心臓の病気だと聞いたが、よく覚えていない。だが、彼女が俺にとって宝物だったことは記憶している。
 夢の中の俺は、母さんの膝に乗った。そうだ。俺はこの場所が好きだった。
 大好きな母さん。
 しかし夢の中の彼女の姿は不鮮明で、顔にはもやがかかっている。時間がたち過ぎて思い出が薄れているのかもしれない。
 そんな世界を、俺は眺めていた。
 母さんは絵本を開いて読み始めた。その声だけが、夢の中でやけに鮮明に俺の心に届いた。
 懐かしい声。あたたかい時代。
もう戻れない過去。
 戻らない、戻ろうとは思わない、俺は。
 なのに心が、妙に震えるのだ。

「眠っていたのか、俺は」
 中尉は薄く目を開けた。殺風景な灰色の壁が視界に広がる。ここは母さんがいた世界ではない。どうやらうたた寝をしていたようだ。
 差し込む西日に眩しげに目を細め、中尉は立ち上がった。過去の俺はもういない。
「お目覚めかい、中尉さんよ」
 彼が生あくびを噛み殺すのを見計らい、背後から声が飛ぶ。声の主はすぐに分かった。中尉は、落ちてきた前髪を乱暴にかきあげるとため息混じりに振り返った。どうやらまた部屋の鍵をかけ忘れていたらしい。
「中尉の寝顔、拝ませてもらったぜ。まぁ、合格点だな」
 何が合格なのかはわからないが、壁にもたれてペルゼンが笑う。右手のグラスの中身は、たぶんブランデーだろう。
「ああ、それから、あんたがちっとも起きねぇからあそこのやつ勝手にご馳走になったぜ?」
 言って指差したのは棚に並んだブランデーのボトル。見事に一番高価なものの栓が抜かれていた。
「中尉さんあんまり飲まねぇから。俺が変わりに減らしてやってるんだ」
 置いてあった書類なども無断で読みあさったのだろう、あちこちに散乱している。
「何の用だ」
 溜息を隠しもせずに中尉が聞く。ペルゼンはグラスの中身を一気に飲み干してから、
「シュタイナー大佐が呼んでたぜ。二時間前に」
「馬鹿か貴様は。それを先に言え」
 中尉は急いで上着を整えると、ペルゼンを押しのけて廊下に出た。頼んでもいないのにペルゼンは後をついてきた。
「よく寝てたな、中尉。疲れてんのかい?」
 言って横顔を覗き込む。
中尉はその質問に軽く間を開けたあと、独り言に近いかたちで呟いた。
「夢を見ていた」
「夢?」
 聞いてペルゼンが意外そうに眉を動かす。
「そうだ、夢だ。…ただの、夢だ」
 忘れ去ったはずの過去の幻影。中尉は自嘲気味に唇の端を吊り上げ、足早に歩き出した。


 まったくもって気に入らない。
 日差しがほとんど入らない小さすぎる窓も、小汚い壁も、埃臭い薄っぺらい毛布も何もかも。
 ここに入れられてから一体どのくらい時間が経ったのだろう。一体何度、朝日が昇り夕日となって沈んだのだろう。
 少女はふと、そんなことを考えてみた。
 もう、覚えていない。どれだけの昼と夜が繰り返されたかなど。
「どうでもいいわ、そんなこと」
 忘れてないことといえば、夏が過ぎて今また冬が来たということと、兄さんが撃たれた瞬間の光景。それだけ。
 一年の間に笑顔を忘れて憎しみと哀しみが増えた。
 少女はどうにかしてそれを紛らわせようと思い、昔聴いた歌をそっと口ずさんでみたりしたが、たいした効き目はなかった。
同室の者は皆一様に重く沈んだ表情をしている。少女は、しかしそれに負けないように鋭く天井を睨んだ。
「だけど私は負けてなんかやらない」
誰も聞いてないと知りつつも強く呟く。
 こんな運命に、負けるつもりはない。
 そう。絶対に。


「いいよ。楽になりたまえ」
 葉巻の火を灰皿に押しつけ、シュタイナー大佐が言った。大佐の背中の壁には鉤十字の旗が掲げられ、両脇の棚には高価な酒が並んでいる。ペルゼンは思わず唾を飲み込んだ。中尉は一礼してソファーに腰を下ろす。
「それで、御用というのは?」
「そうだったな」
 中尉の問いかけに答えるように、大佐は机の上に山積みにされた書類の中から一枚を探し出すと、彼に手渡した。中尉はそれに素早く目を通す。差出人はベルリンの大本営となっていた。
「これは…?」
 一読したあと、中尉は自分の声が震えているのがわかった。顎をさすり、大佐が身を乗り出す。
「字が読めないはずがなかろう?書いてある通りだ」
 なおも何かを言おうとした中尉の手からペルゼンが紙を奪い取った。

健康なユダヤ人男女二百名を至急ベルリンの地下軍需工場へ補充せよ。
なお、その際収容施設は破壊し、貴殿らもベルリンへ帰還されたし。


 内容はこうだった。ペルゼンは黙ってその紙を大佐に返した。
「人手不足かね」
 短く呟き、前髪を掻き上げる。ドイツ人はみな、戦場へ行ってしまった。大佐はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「ここも時間の問題だ。連合軍の手に落ちる」
 思わずペルゼンが姿勢を正した。
「だが、誤解しないで欲しい。我々はベルリンへ戻るのだ。決して…逃げるわけではない」
 そう言った大佐の言葉は、どこか自分自身に言い聞かせているようにも感じられた。
「大佐」
 負けるのですか?
 口をつきかけた言葉を慌てて飲み込み、中尉は大佐の瞳を見た。シュタイナー大佐はわずかに視線を逸らし、二本目の葉巻に火を付けた。
「奇跡は起こる。そう…信じよう」
 しかし口調に勢いは感じられず。
「出発は明後日だ。ユダヤ人の人選及びその後の処理は、中尉。君に全権を任せよう」
 大佐はそれだけ言うと自分から部屋を出ていった。

 日光は地平線に遮断され、もう届かない。寒さが押し寄せ、外は完全な闇が舞い下りた。廊下には等間隔に電灯が灯っているが、それでも昼間の明るさはない。ペルゼンはコンクリートの壁にもたれ、冷気にその身を委ねていた。
「ベルリンか。そこは酒がうまいかねぇ」
 どうでもいい呟きで、張り詰めた静寂を揺るがせてみる。
「知るか」
 窓の縁に片腕をつき、外の闇を眺めていた中尉が愛想無く返した。ペルゼンは一つ大きく息を吐くと、中尉の横に並ぶ。中尉は動かない。窓の外では当直の隊員が懐中電灯を片手に右から左へ横切っていく。
「明日は忙しくなるぞ」
 中尉の声は静かに響いた。
「どうするんだい?」
 言って軍曹はポケットから紙切れを取り出し、中尉に手渡す。そこにはこの収容所の人数が書かれてあった。
「今の収容人数は三千七百六名。ベルリンに連れて行けるのは二百しかいないぜ。アウシュビッツにでも送るのか?」
「いや、それは不可能だ」
 紙切れをペルゼンに返し、小さくかぶりを振る。
「アウシュビッツは落ちた。…さっき俺の部屋で読んだ書類の中には無かったか?1月の27日だったか…」
「マジかよ」
 ペルゼンはやっとのことでそれだけ答えた。その事実は、今知った。
「だから、ここで処分する」
 声色はそのままで、中尉は話題を変えた。ペルゼンは思わず中尉の横顔を覗き込んでいた。
「うちは殺す為の施設じゃねぇ。ガス室なんてねぇんだぞ?」
 正気か?そう聞きたかった。
「弾丸ならある。詳細は明朝指示する。明日は飯が食えなくなるかもしれんぞ。覚悟しておけ」
 外では、風に雪が混ざり出し、しきりに窓ガラスを叩いていた。中尉が自室に戻った後も、ペルゼンはその場に立ち尽くしていた。2月。春は近いはずなのに、暖かくなる気配は少しも感じられなかった。

÷÷ つづく ÷÷
©2000 Jun Hayashida
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