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§君の心に風の戻る日:第一章§

凍結 (2)

著:林田ジュン

 レコードは先程から同じ大衆音楽を飽きることなく繰り返している。すでに酒のまわった数人が音楽に合わせて体を揺らせ、その間を給仕たちが忙しなく行き交っていた。収容所の隊員食堂。
 酒はもともと好きなほうではない。
 二杯目のワインに口をつけ、中尉は腕時計に視線を落とした。ペルゼンとは何度か話をした記憶はあるが、仕事をするのは今回が初めてだ。スイスから取り寄せた古風な腕時計は、八時三十分を少し過ぎたところを指していた。
 遅い。
 大佐に会ったすぐ後、彼はペルゼンの部屋を訪ねた。だがペルゼンは、今は忙しいので後にして欲しいと言った。そして約束の時間が八時だった。
 中尉はもう一度忌まわしげに時計をにらみ、不機嫌そうに爪を噛んだ。
 ちょうどその時、入り口の扉が勢いよく開き、男が二人入ってきた。ひとりは、確かペルゼン軍曹直属の部下で名前をリヒターと言ったはずだ。彼はまず中尉のそばに駆け寄ると遅れたことを詫びた。
 一方もうひとり、当の軍曹本人はというと、適当な給仕を捕まえてビールとウインナーを注文してから、ようやく中尉の前の席にどっかりと腰を下ろした。ペルゼンは無精髭をさすりながら、
「しかし俺より若いのに俺よりいい地位にいるんだからな。世の中おかしいぜ、全く。あんたもそう思わないかい?」
 遅れたことを詫びもせず、そんなことを言ってへへへと笑った。
 この態度に当然中尉は不快感を覚え、そしてリヒターは二人の顔を見比べておろおろした。リヒターが気の利いた言い訳を考えついたころ、ビールとウインナーが運ばれてきた。ペルゼンは明らかに不機嫌な中尉をよそに待ってましたとばかりにウインナーにかじりつき、
「中尉さんは短気だねぇ」
 肩をひょいっとすくめて見せた。
「長生きしてぇなら短気はよくないぜ。俺のばあちゃんの口癖はのんびりいこうよだったなぁ」
 意味もなく遠い目をしているペルゼンの隣で、もはやせっかく考えついた言い訳も空しく、リヒターはただ必死で頭を下げるしかなかった。中尉は何も答えない。リヒターにはそれが怖くてたまらなかった。なんせ「殺人機械」の中尉殿だ。味方ですら躊躇いなく撃つと噂されている。そんなリヒターの思いも空しく、ペルゼンはこともあろうに食べかけのウインナーを中尉にすすめだした。
「ふざけるな」
 やっと、中尉が口を開いた。しかしその言葉はリヒターの心臓をいっそう締め付けただけだった。
「もったいねぇ。食い物を粗末にするなって学校で習わなかったか?」
 中尉に払いのけられて床に転がったウインナーを拾う。その拍子にペルゼンの胸ポケットからサングラスが滑り落ちた。
「しょうがねぇな。本題に入るとしますか」
 何が仕方ないのかはわからないが、とりあえずリヒターはほっとした。
 誰かがリクエストしたのかレコードが一瞬止まり、変わって静かなクラシックが流れ出した。
「実は俺の部隊の奴がいいもの拾ったんだ。…見に来るかい?中尉さん。別に金はとらねぇぜ?」
 再び顔色の変わったリヒターと交互に見て、中尉はひとつ、息を吐いた。
「変な奴め」
「何か言いました?」
 わざと聞こえなかった振りをして、ペルゼンはひょうっと口笛を吹いた。
「なんでもない。早く案内しろ」
 言われてペルゼンは残りのビールを一気に飲み干し、
「こっちだぜ。案内するからついて来な。迷子になっても知らねぇぜ」
「無駄口を叩くな。さっさとしろ」
「へいへい」
 中尉にせかされて、ペルゼンはやれやれと肩をすくめて笑った。
 食堂を出ると、あたりは喧騒と無縁になる。人気のない廊下は異様に冷え、天井の電灯も心なしか暗く映る。彼らの靴音だけが唯一音を立てている。
 人工的な静寂。
 整然と彼らを包み込む灰色。冷たい。
 そして要所ごとに掲げてある鉤十字の真紅。
 狂気は静かに根付いていた。
 しばらく歩いて、外につながる扉の前で立ち止まったペルゼンは、リヒターに言ってそれを開けさせた。凍った空気と夜の闇が一気に押し寄せ、軍曹は大きく体を震わせた。
「コートを取って来ましょうか」
 リヒターが気を利かせたが彼は、いらね、と短く答えて側においてあった懐中電灯をつけた。外は何もない空間が広がり、遠くに明かりが見えていた。三人はそこを通り抜けて明かりを目指した。その建物は、今しがた彼らの出てきた管制塔とは明らかに異なる粗末な造りになっている。入り口の立て札には殴り書きされたユダヤの文字がうっすらと読み取れた。
「猿小屋だ」
 ペルゼンが肩をすくめた。そして、入り口の扉の前で警備についている若い親衛隊員に軽く片手を上げた。
「これはペルゼン軍曹ではありませんか。こんな時間に珍しいですね。いつもなら食後に一杯やってる時間ですよ」
「残業だよ」
 親しげに声をかけた親衛隊員を適当にあしらい、ペルゼンは扉を開けさせた。いやな軋みを立てて扉は開く。
「行くぜ、中尉さん。少し臭うが、なぁに、慣れればどうってこたぁねぇ」
 一足先に入った軍曹は、肩越しに振り返って子供っぽく鼻をつまんで見せた。
「なんせ風呂に入れてねぇから」
「軍曹も酒臭いですよ」
 背後からの親衛隊員の声を笑って無視して、ペルゼンは奥に進んでいく。周りを軽く見回し、中尉はわずか、眉根を寄せた。彼は今までここに足を踏み入れたことはなかった。 異世界だ。中尉は最初に嫌悪感を抱いた。
 ここに、整った灰色の沈黙はない。鋼のごとき緊張感も、空気に含まれる収束された威厳も、何も見当たらない。
 そのかわりに、というのだろうか。何かにおびえた無数の影のざわめきが、澱んで流れを忘れた重たい憂鬱が、全体に渦を巻いて漂っていた。そして鼻を突く腐敗臭が何よりも不快だった。
「掃除くらいさせたらどうだ」
 当初は灰色だったはずの壁は得体の知れない汚物で茶色の染みを作り、同じく不潔な床を鼠が我が物顔で散歩している。
「けどな、新しいほうきを買うより弾丸買ったほうがいいんじゃねぇか?」
「確かに一理あるな」
 消灯時間にはまだ少し間があるらしく、うっすらと灯る電灯に蛾が数羽集まってきていた。所々電球が切れて点滅しているのもあり、それがいっそう周囲を暗く感じさせた。
 廊下をはさんで両側にある粗末な部屋では、詰め込まれたユダヤ人たちが就寝の準備をしている。中には廊下に出て話をしているものもいたが、中尉たちの姿を見つけると、端に寄って小さくなっていた。その光景は人間同士の悲惨な弱肉強食を物語るには十分すぎた。
 しかし、中尉はすべてを無視した。
 気分が悪い。
 中尉は無意識のうちに足早になる。そして。
「抹殺してやる」
 ふと、呟いた。
「だから言ったろ?何なら次から鼻詮でも持ってくりゃあいいぜ」
 振り返ってペルゼンが無責任に笑った。
「黙れ」
 軍曹を睨みつけ、中尉は肺にたまった空気を乱暴に吐き出す。中尉の不機嫌に気づいたユダヤ人たちが、八つ当たりされるのはごめんだとばかりに慌てて近くの部屋に逃げ込み、そして物陰に隠れて、三人が通り過ぎるのを待っていた。
 しばらく行くと、子供が遊んでいた。
 子供たちは三人の姿に気付かず、彼らの遊びを続けている。たぶん追いかけっこをしていたのであろうが、笑い声を上げて逃げ回っていた男の子が勢い余って中尉の腰のあたりに頭をぶつけた。
 中尉は偶然機嫌が悪かった。
「あ」
 リヒターが小さく声をあげるそれよりも早く、中尉は銃を引き抜き、銃口は少年の頭部を捕らえていた。
「知らねぇ……っと」
 ペルゼンの呟きに一瞬遅れて、銃声。軍曹はとっさに視線を逸らせた。
 子供たちは、目の前で起こったことが理解できずにただ立ち尽くしている。少年は、その小さな体からは想像もつかない量の血液をばら撒いて、声も立てずに地に伏した。潰れた頭部はざくろの形容がよく似合い、幼い顔は見る影もない。
 中尉は返り血の跳ねた手袋を無造作に死体の上へと投げ捨てた。
 瞬間的な緊張と静寂。
 直後、母親らしい女性がぶちまけた狂った咆哮。
 中尉は引き金を引く行為だけで彼女を完全に黙らせた。もう誰も、何も言わなかった。 中尉の瞳に迷いはない。
 彼の瞳に、にんげんはいない。
 あるのはただ、無機質な輝きのみ。
「殺人機械ねぇ。なるほどなぁ」
 天井を見上げ、ペルゼンはひょうっと口笛を鳴らす。二人の後を、リヒターが半歩遅れてついてきていた。

÷÷ つづく ÷÷
©2000 Jun Hayashida
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