戦争。
人が死に、夢が死に、涙が流れ、微笑みはそして戻らない。
たとえば、あちこちの「収容所」の煙突から立ち昇る赤黒い煙。
たとえば、時折耳に届く重たい砲声。
君は知っていた。その濁った煙の正体を。
そう、知っていた。血色に染まった銃口を。
そう。
知っていた。死んでいった夢や希望を。もう叶わない未来を。永遠に届かない、あの、微笑を…。
1946年 秋。
終戦から一年半が過ぎようとする今、ヨーロッパ各地で戦争犯罪者に対する軍事裁判が開かれていた。
張り詰めた緊張と静止した空気の中、青年がひとり最後の判決を待っていた。彼は、ナチス親衛隊の中尉だった。
硬い槌の音が二度、静寂を揺るがした。
「判決を言い渡す」
通訳の抑揚のない機械的な声が、裁判官の言葉を彼に伝えた。中尉はそっと瞳を閉じ、そして次の瞬間を待った。
1944年 1月 ドイツ。
ヘリコプターの巻き起こす乱気流に丈の短い草が小波立ち、土煙が空高く舞う。
中立国スイスとの国境付近に、小さな収容所があった。たった今そこのヘリポートに着陸した機体から降り立った一人の青年を、武装した兵士たちが敬礼姿勢で出迎える。漆黒の制服、そしてその胸で輝く階級章が、彼の地位を語っていた。
青年は、ナチス親衛隊の中尉だった。
中尉は兵士たちに冷たい一瞥をくれると、そのまま機械的な足取りで建物の入り口を目指した。
冬の空は灰色に沈み、全くの無風。重たい空気が低空に沈殿している。
収容人数約三千という決して大きくはない収容所を囲むように張り巡らされた鉄条網には高圧電流でも流してあるのだろう、「危険」と書かれた立て札がいたるところに見受けられた。
左右の監視等では武装した二人の兵士が敬礼姿勢のまま固まっている。そこを中尉は無言で通過した。
厚い雲に遮られ、日差しは地表に届かない。
硬く張った霜柱を踏みつけて、中尉は歩く。
彼は表情の一切を消したまま、ふと、何もない虚空を見上げた。流れてきた風に、前髪がわずかに揺れる。灰色の双眸は静かな、しかし冷酷な光を宿していた。
冷たく無機質な靴音が四つ、灰色の廊下に響いている。
中尉とその案内役の兵士は交わす言葉もなしにこの収容所の責任者の部屋へと急いでいた。
単調に続く廊下をしばらく。他よりもいくらか大きな扉の前で、兵士が立ち止まった。扉の両側では、垂直に垂れた真紅の鉤十字の旗が沈黙のままに中尉を出迎える。彼は重たい扉を二度、ノックした。
「中尉殿か?入りたまえ」
短い返答が返って来た。
扉の開閉の後、中尉は靴の踵を音を立てて揃えると、
「ハイル・ヒトラー」
お決まりの文句とともに右腕を斜めに突き上げた。
部屋の中ではシュタイナー親衛隊大佐が大柄な体をソファーにゆったりと沈めていたが、
中尉の姿を認めるとわずかに身を起こし、口元に満足そうな笑みを浮かべた。机上に飲みかけで放置されたブランデーのグラスに、中尉の全身が揺れて映る。
「また君の出番だよ。殺人機械の中尉殿」
手にしていた資料を適当に放り投げ、大佐は白の混ざり始めた己の髪を撫でた。口にくわえたタバコの白煙が、揺らめきながら虚空へ消える。殺人機械とは、この場所での中尉のあだ名のようなものだった。
「わたしが呼んだ理由は分かっているだろうが」
大佐の細い瞳が更に細まり、鋭い眼光を帯びた。中尉は機械のように何の躊躇いもなく人を殺せることで有名だった。
「先程一般からの通報があってな。この付近に逃走中のユダヤ人の一団が潜んでいるとの情報が入った。早速捕らえて収容したい。逆らうようなら…君の好きにすればいい。詳しいことはペルゼン軍曹に話してある。彼に、聞きたまえ」
それだけ聞くと、中尉は一礼して部屋を後にした。
少女は走っていた。
自分の息が頭の中で耳鳴りのように喚いている。何も履かない素足からは、土を踏むたびに冷気が伝わり体が裂けそうな心地がする。どこで落としてきたのか、いつのまにか両足の靴が無くなっていた。木の枝にでも引っ掛けたのだろう、粗末な衣服はあちこちが破れ、露出した白い肌にはうっすらと血が滲んでいる。
だんだん頭が朦朧としてくる。苦しい。
足は棒のようになり、今にも音を立てて壊れてしまいそうだ。
少女は額に浮かぶ大粒の汗を、きりがないと知りつつも無意識のうちに拭っていた。冷たい風が熱せられた肌と反発し、痛い。
ごめんね、エヴァ。
少女は胸の中で幼い彼女の妹に謝った。エヴァは彼女と一緒に森を出た。彼らが潜んでいる冬の森は食料が少ない。その日は二人が森の外で食料を調達してくる順番になっていた。
しかし今、彼女の隣にエヴァの姿はない。
仕方がなかったのよ。
こうするしかなかったの。
だって、本当にどうしようもなかったんだもの。
それは、言い訳。自分に対する言い訳。そんなことは分かっている。
運が悪かった。森を出たところでドイツ人に見つかってしまった。見つからないように注意していたつもりだったのに。そしてそのドイツ人はすぐさまどこかに電話をかけた。通報先は軍部か秘密警察か。そんなことはどうでもいい。どうせ大差はない。どちらにしろ、それは、絶望を意味した。
少女はその瞬間、ほとんど本能だけでもと来た道を駆け上がっていた。背後で妹が転んだのが気配でわかったが、引き返す余裕も、振り返る余裕さえもなかった。
ただ、直後に、置き去りにされた妹の泣き声と、ドイツ人が何かを叫ぶのが聞こえただけ。
汗と涙とが目の入り口で混ざり合い、頬を流れた。
少女は、そして前方を見た。
そう。今は逃げなければ。
なぜならば、ユダヤ人だから。ただ、それだけの理由で。
いつさっきのドイツ人が目の前の木陰から姿を現すかわからない。いつ、彼に呼ばれた軍隊が迫ってくるかもわからない。そう。
わからない。もう何もかもわからない。
恐怖。
だから、走る。だから、逃げる。
できる限り速く、兄さんや仲間の待つ洞窟へ。そこに行けば助かる。そんな気がするから。だから。
わたしはまだ、生きていたい死にたくない。
だから、走らなければ。
走る、という行為に彼女の意思が働いているかどうかなどもはや彼女自身にも分からなくなっていた。足の筋肉だけが壊れたぜんまいのように勝手に動いているだけかもしれない。
そんなことはどうでもいい。もう何もかもが分からない。
妹を見捨てた自分も、走り続ける自分も、もう何もかもが分からない。だけど。
だけどわたしは生きていたい。
むちゃくちゃに壊れてしまいそうな心の中でただひとつ、形を成す想いがあった。
ワタシハマダ シニタクナイ
強い、想いがあった。そして少女はそれだけをひたすらに念じて。
ふわふわだった自慢の髪は、汗をいっぱいに吸い込んで重たく肩のあたりで跳ねている。もう足の感覚は無くなってきた。それでも。
生きたい。
願いは、ひとつ。
そうして、兄の胸の中で少女は泣いた。彼女の背を優しく撫で、兄は言った。
「大丈夫だから…」
厚い雲の向こう側で、太陽は今、沈もうとしていた。