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§君の心に風の戻る日:第三章§

戦場に吹く風 (2)

著:林田ジュン

 目の前でヒトラー・ユーゲントの少年たちが、空襲で破壊された市電の残骸に石を詰めて簡単なバリケードを作っている。
「あいつらも……戦うのか。まだ子供なのにな」
 その様子を横目で見やり、ペルゼンはつま先で煙草の火をもみ消した。
「子供も大人も関係ない。同じドイツ人だ」
 中尉は持っていた小銃を隣のリヒターに預けると、無造作に前髪をかきあげる。
「けどな、子供に人殺しはさせたくねぇよ。俺には弟がいるんだ」
 言ってペルゼンは次の煙草を探し。だがポケットの中には見つからず、それを求めてリヒターを振り返る。しかし彼は首を横に振っただけだった。リヒターは、煙草は吸わない。
「まだ15歳なんだけどよ。こいつに人殺しになってもらいたくはねぇよ」
 寂しくなった口を紛らわすかのように早口で喋り、軍曹は胸ポケットから一枚の写真を取り出すと中尉に見せた。
「かわいいだろ。母親に似たんだぜ」
「ならば貴様は父親似だな」
 軍曹は笑って聞き流す。写真の中では、まだあどけなさを残した少年が微笑んでいる。瞳は、狂気を知らない澄んだ色をしていた。
 中尉はなんとなく、このくらいの年齢だったころの自分を思い出していた。しかしその頃の自分がこんなふうに笑える少年だったかどうか、もう覚えていなかった。
「どうでもいいか、そんなことは」
 隣のリヒターには聞こえないように小声で吐き捨てる。そんなことは、どうでもいい。
 過去は、もういい。それがどうであれ、血に染まった今の自分は変わらない。そのことが悲しいとも、別に思わない。
「もう、忘れたな」
 呟きは、喉の奥で。もう忘れてしまった。
 殺す瞬間の心の叫びも何もかも。あまりにこの手を血で染めすぎて。
 だけどお前は。
 心の深くで声がする。
 だけどお前は、あの女を殺せなかった……。
「行こうぜ中尉。戦争だ」
 ペルゼンがサングラスをかけてからそう言った。
 遠くで砲声が聞こえている。空は、曇り。戦闘機が飛び、鳥は飛ばない。
 奇跡はもう、起こらない。終幕がすぐそこでちらついている。
 しかし、もう止まれない。止まることはできない。もはや帰ることができないほど過去は遠のき、自分は多くを忘れてしまった。
 信じるものは、何ですか?
 それは未来、そして今。血まみれの大地に立つ、自分。
 信じるものは、何ですか?
 栄光の夢。しかしそれはすでに地に堕ち。
 信じるものは、何ですか?
 前を走るペルゼンの小銃が、わずかに差した日の光に鈍く光っている。
 信じるものは、何ですか?
 もう、わからない。しかしもう、戻れない……。
 後ろにリヒターが続いているのは気配で感じた。中尉はふと、ペルゼンのサングラスが気になった。空は、曇り。
「これがねぇと血が赤く見えるんだよ」
 聞いた中尉に、ペルゼンはそう言って笑った。


 重く地面を揺るがす爆音は、ますます激しくなっているようだった。
 ベルリンの地下軍需工場。少女は銃弾を磨く手を止め、天上を見上げた。おそらくこの上は、戦場。その下で自分は、人を殺す道具を作っている。
「もうすぐ自由になれる。ドイツは終わりだ」
 誰かが言ったのが聞こえた。監視に立つ5人のドイツ兵は、思いつめた表情で固まっている。彼らの目は、もう自分たちを見てはいなかった。
 自由。長い間考えもしなかった単語。それがもうすぐ叶うかもしれない。
「でも」
 少女の呟きはどこか寂しげで。
「でも、それからどうすればいいんだろう」
 そんな本音は爆音にかき消されて。兄さんは死んだ。妹も死んでしまった。未来を約束しあった友人も、もういない。
「私は、どこに行けばいいのかな。どこに帰ればいいんだろ」
 今までは生き残ることしか考えてこなかった。でも、もう自由は目の前。だったら次は、何に一生懸命になればいいんだろ。ふと湧き上がったそんな気持ち。
 その時、一際大きな爆音が響いて入り口の扉からソ連軍がなだれ込んできた。
「助かった!」
 誰かが叫んだ。5人のドイツ兵は、4人が銃を捨て、1人がこめかみを撃ち抜いた。
「助かった?」
 少女は喜びに沸く同胞を見つめ、他人事のように声に出した。まだあまり実感はなかった。
 もう、死の影に怯えなくてもすむ。もう大丈夫だ。なのに、心の片隅が痛かった。彼女にとっても、ドイツは祖国だった。それが今、崩壊してゆく。
「わかんないや」
 分からない。自分が今嬉しいのかそうでないのか。
 でも、いろいろと考えるのはもう疲れた。彼女は、そして最後に自分が磨いた銃弾をポケットにそっと隠した。
 きっとこの工場はソ連軍が使うのだろう。自分たちの作った銃弾を使うのだろう。
「これでひとり、助かるかな」
 憎いはずのドイツ兵。しかし何故か、死んでほしいとは思わなかった。
兄や妹、ルーイやマリアの顔がよぎる。だって、人が死ぬと悲しいじゃない?
 ずっと我慢していた涙が、今になって一気に溢れ出した。


 街が、燃えている。爆音はこの街を破壊し尽くすまで鳴り止まないのだろうか。
「空が……赤いな」
 消えない、炎。それが夜空を赤く染めている。爆撃機はもう、飛んでいない。おそらく爆弾を落とせる場所には落とし尽くしてしまったのだろう。
そんな夜空を見上げ、ペルゼンは適当な瓦礫に腰を下ろした。持っていた小銃の弾丸は撃ち尽くし、残っていない。先程周囲の様子を見に行ったリヒターは、一時間たっても帰ってこない。たぶん、もう会うこともないだろう。
「そうだな」
 同じく弾倉の空になった小銃を投げ捨て、立ったまま中尉が返す。
 それから、しばしの沈黙。二人は、崩れゆくベルリンをただ、見つめていた。
「俺、ベルリンに来るのが楽しみだったんだぜ」
 何度目かの爆音の後、軍曹がそんなことを言った。ペルゼンは南ドイツの小さな村の出身だった。
「来れただろう? よかったじゃないか」
 中尉はもう、いちいち爆音の方向を気にすることはやめた。ペルゼンはなんとなく中尉のほうに上体を向けると、上着の襟を緩めた。
「でもな。来てみたら憧れてた街がこんなになってんだぜ? ……複雑だよ」
 そして再び、爆音。視界内にあった建物が崩れ、窓から垂れていた鉤十字の旗が焼け落ちていく。
 終幕だ。ドイツ第三帝国の、終幕だ。
 終わったのだ。彼らの信じた夢は。終わったのだ。甘い狂気に酔いしれる時代は。
「なぁ、中尉」
 軍曹の声は、しかしいつもと変わらずに。
「朝、目を覚ますと全部夢だといいのにな。もし……子供の頃に戻ってやり直せるなら、中尉さん、あんたどうする?」
 そんな質問。中尉は口の端だけで笑みをつくるとペルゼンの横に腰を下ろした。炎が作り出す上昇気流に前髪が揺れている。
「愚問だな」
 そして瞳を閉じ。
「今と同じ道を選んだだろう」
「そして今と同じ結末を迎えるのかい?」
 崩れゆく祖国。崩れゆく理想、信じた夢。
 この結末を知っていたら自分はこの手を汚しただろうか?
 何度も見た夢。それは全世界に鉤十字の旗がたなびく夢。そしてその中にいる、自分。それを信じて少年だった中尉は殺人機械になった。
 だが、もしあのときの自分がこの結末を知っていたら? それでも自分は、血塗られた道を選んだだろうか。
 そして中尉は先程よりも深く微笑した。やはり、愚問だ。
「そうだ」
 たとえもう一度、まっさらの人生を授かったとしても。
「俺もだよ」
 軍曹の声が隣で聞こえた。
「けど……負けたら、俺たちは悪魔扱いだぜ」
 ユダヤ人を殺した悪魔。鉤十字のもとに集った黒衣の狂信者たち。
 この手を染めた血は落ちない。犯した罪も、消えはしない。
「構わない。天使よりは……似合っている」
 行為はついに正当化されなかった。
 信じた道。それは血塗られた街道だったが、後悔はしていない。それが、信じた世界だったのだから。だが。
 ひとつ、思う。
 もしも過去に戻れるのなら、母さんに似た声の女を生かせたかった。
「その悪魔にも夢や心があったなんて……思ってはくれねぇんだろうな」
 言って、ペルゼンは今までかけていたサングラスを外した。ヒルダは、歌手になりたかった。リヒターは、結局ひとりも殺せなかった。
「もういいのか?」
 胸ポケットに突っ込まれたサングラスを見て中尉が聞く。軍曹は、赤い血が嫌いだった。
「もう、使わねぇから」
 弾のなくなった小銃を指差して、笑う。そしてそのままペルゼンは瓦礫の上に仰向けになった。
「星はさすがに見えねぇな」
 大地が赤く燃えすぎて、暗闇ははるか上空へ追いやられてしまった。たまに横切る光は敵の偵察機だろう。それを追う対空射撃の花火は、しかし無力に消えていった。
「朝になったらこの国はもうドイツじゃないかも知れないぜ」
 その光を目だけで追って、軍曹。
「鉤十字のかわりに違う国の旗が翻る……。想像できねぇな」
 中尉は何も答えなかった。あるいは、ペルゼンの呟きが爆音に負けてしまい、届かなかったのかもしれない。とにかく中尉は、腰の銃を抜いてそれを見つめていた。
「あと、8発」
それは残された弾丸の数。そして、奪える生命の数。
 だが、今までに奪った数に比べればどうでもいいような数字だった。数え切れない、数えようにも思い出せないほどの血を吸った、中尉の銃。それは、ベルリンの炎が反射して赤い鈍光を帯びていた。
「まだ殺す気かい?」
 どうせ負けるんだぜ? 台詞の後半は喉の奥で呻き声に変わり、声として発せられることはなかった。中尉は、しかし動作の手を止めず。何を思ったか一発、虚空に向かって引き金を引いた。

÷÷ つづく ÷÷
©2000 Jun Hayashida
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