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§君の心に風の戻る日:第三章§

戦場に吹く風 (3)

著:林田ジュン

「……逃げるか? 中尉」
 ふと、ペルゼンがそんなことを言った。
「何だと?」
 意識せず、声に力がこもる。それは選べない選択肢だった。
「このドイツを捨てて、か? ふざけるな」
 軍曹はその答えを予想していたように、へへへ、と笑うと鼻の頭を掻いた。
「俺はいいけどね。中尉さん、あんた、捕まらないように用心しろよ」
 収容所でユダヤ人の「処分」を決定したのは中尉だった。中尉は、ふん、と鼻を低く鳴らし。
「ならば最後の一発は自分のために取っておくだけだ」
 信じたものは、すでに壊れた。夢見た未来は、もう来ない。残されたのは、血に汚れた自分と7発の弾丸。
 ペルゼンは黙って中尉の横顔を見つめていた。
 遠くで戦車の駆動音と、人の声が聞こえている。おそらく味方ではないだろう。また、近くの建物が爆音と共に消えた。
「中尉さんよ。戦争が終わって無事だったら……俺の生まれた村に遊びに来いよ」
 死ぬんじゃねぇよ。言いたかったのはそんな台詞だったが、ペルゼンは代わりにそう言った。そして中尉の反応も見ずに一気に続ける。
「森の中にある静かな村だ。たぶん空襲は受けてねぇ。案内してやるよ。教会の隣の店が出すスープが最高なんだ」
「……ベルリンは、酒がうまかったか?」
 中尉の返答は軍曹の予想とは違うものだった。
 そういえばベルリンへの移動を聞かされた日、そんな質問を中尉にした気がした。
「まだ飲んでねぇよ。忙しかったからな」
「ならばそのときにはベルリンで一番高い酒を持って行ってやろう」
 言いながら、しかし中尉は戦争の終わった後の自分の姿を想像することができなかった。
軍服を着ていない自分。銃を握っていない自分。戦争の時代に生きた中尉は、平和を思い出すことができなかった。
「へぇ?そいつは嬉しいねぇ。期待してるぜ」
 ペルゼンが、立ち上がる。
「任せておけ」
 平和な時代。母さんのいた、時代。それはすでにはるか遠く。戻りたいとは思わない。しかし心のどこかがへんに物悲しく。
 目が覚めてすべて夢だったらどうする? 
 何故か軍曹の台詞がよみがえる。それでも自分は同じ道を歩いただろう。
 だが。
 もしかしたら、母さんによく似た声で喋るあの女を、生かせることができたかもしれない。あの時別の決断をしていれば、あの女は生き残っただろう。
 中尉の心に、殺人機械はもういなかった。あの女が死んだあの日、心の中の機械も、死んだのかもしれない。
 右手には、銃。何人もの人間を殺してきたこの銃で、最後は自分を撃ち抜くのだろうか? そんな、疑問。しかし中尉に、ヒルダのような勇気はなく。
 結局ペルゼンと逃げるのだろうか?しかし、それも自分には似合わなくて。
 わからない。もう、どうすればいいのか。
 わからない。もう、どこに行けばいいのかさえ。
 このままここに座っていたら、時間が自分を片付けてくれはしないだろうか?
 また、どこかで建物が崩れ落ちた。
 もう、わからない。もう、どうでもいい。
 信じたものはこの街とともに崩れてしまった。
 そして中尉は歩き出したペルゼンを横目で見て。
「どこに行くつもりだ?」
 もう、行くところはない。戻れる過去もない。たどり着くはずの未来は、見えなかった。
「リヒターを探しに行くんだよ」
 ペルゼンはそう言った。だが、もう生きてはいないだろうという想像は容易くついていた。いつも後ろからついてきていた若い隊員。もう、会えない。もう、いない。さっきまですぐそばに、いたのに。
「その辺で道に迷ってるだけかもしれねぇから」
 それはおそらく、ありえない希望。叶わない、願い。戦争がはじまった頃、自分たちがいずれこんな気持ちになるなど考えもしなかった。
 どこで間違ってしまったのだろう?
 その問いかけに、答えは出ず。
 中尉は、ペルゼンの後を追って歩き出した。


 街が、煙を上げている。
「落ちるな、ここも」
 戦車から降り、アレクサンドル少佐は呟いた。初めて踏んだベルリンの土は、しかしモスクワのそれとあまり違わなかった。
「第三帝国……か」
 ひとつの国が終わろうとしている。千年帝国を夢見た国。それは多くの夢を巻き添えにして。消えていった未来。つぼみのまま摘み取られた花。もう咲かない。
「空しいな。戦争は何も生み出しはしない」
 憎しみと悲しみが増幅するだけ。ふと口をついた軍人らしからぬ台詞に苦笑する。
「アレクサンドル少佐!」
 声が呼んだ。双眼鏡を手にした彼の部下だ。
「右の路地裏に敵を発見。追いますか?」
「放っておく理由はないぞ」
 殺さなければ、殺される。それが戦場の悲しい掟。優しい心は、捨てなければならない。
 少佐は部下をひとり戦車の中で待機させておくと、ライフルをつかんで走り出した。瞳はすぐに黒い軍服を捉えた。親衛隊員だ。二人いる。こちらにはまだ、気付いていないようだった。そして、少佐はいつもどおり引き金を引いた。
 体の中心を衝撃が襲った。彼に、ペルゼンに、その衝撃が激痛だということは瞬時には理解できなかった。ただ、体のバランスが崩れ、意識が、飛ぶ。
 そして中尉は。視界の片隅で鮮血がはね、軍曹の体が崩れ落ちるのを見た。思わず、何かを叫んでいた。だが、何を口走ったのかまではわからなかった。それが戦友の名であったのか、それとも意味を持たない絶叫であったのか。
 とにかく中尉は駆け出していた。無意識に放り出した銃が乾いた音を立てて転がったが、その音は中尉の耳まで届かなかった。前方からの銃弾が、次は中尉の頬をかすめ、右肩をえぐる。しかし不思議と痛みは感じず。
 そのまま、彼は軍曹の体を受け止めた。鈍い重さが伝わる。
「しっかりしろ!」
 自分で聞いた自分の声は震えていて。
 ペルゼンは、弱々しく笑って見せた。何かを言ったが、肺に穴をあけられ声にはならずに。
 信じるものは、何ですか?
 ゆっくりと目の前にかざした右手。その手は自分の血で、濡れていた。
「やっぱ……、血は、赤いな……」
 今度はどうにか聞き取れた。だが、軍曹はそれ以上何かを喋ることはなかった。血まみれの右手が、力なく地に落ちる。ポケットの中で、サングラスは割れていた。
 死んだ。
 死んで、しまった。
 もうどれだけ強く呼びかけても、返答はない。軍曹は、死んだのだ。
 たったそれだけのことを理解するのに、中尉は長い時間を費やしたような気がした。それでもまだ、目の前の事実を信じようとしない自分がそこにいた。
 もう一度、体を揺さぶる。しかし、赤い血が流れるだけ。
 ふと。
 中尉は頬に涙が伝うのを感じた。口元が、わずかにつり上がる。
 なぜだか、自分がおかしくて。
 今まで人を殺してきた自分が、たった一人の死のために涙を流すのがおかしくて。
 そういえば。
 思い出す。自分が殺したユダヤ人は、泣いていた。それが自分の死を悲しむための涙だったのか、先に逝った仲間のためのものだったのか、それは中尉にはわからない。しかし。
 今、それと同じように涙を流している自分がここにいた。うつろに開いた双眸は、だがそれを止める手段を知らず。
 そして、後頭部に硬いものが押し当てられる。それが銃口だということはすぐに分かった。思わず、背筋が凍り。
 もうひとつ、思い出した。
 冬の寒い日に、幼い少女に銃を突きつけたことを。あのときの女の子の、表情を。あれと同じ表情を、今の自分はしているのだろうか?
 理由もなく、さらに口元がつり上がる。その笑みは、自嘲の笑みで。そして中尉は上目遣いに見上げた。
「降伏か、死か。選択肢は二つだ。親衛隊中尉殿」
 アレクサンドル少佐が素早く階級章を読み取ってそう言った。
 信じるものは、何ですか?
 しかしそれはもう過去に消えて。ペルゼンももう、戻らなくて。
 死んだら、この先の未来は見ずにすむのだろうか。自分たちの信じた時代の中で、永遠に夢を見つづけられるのだろうか。
 ふと湧いた、そんな誘惑。だが、どうすればいいのかわからなくて。
 思いとは反対に、中尉は両手を上げていた。
 悔しくはなかった。悲しくも、なかった。ただ、哀れだった。他でもない、自分自身が。今ごろになって、先程受けた肩の傷が痛み出した。
 ペルゼンは、もういない。リヒターも、もういない。最後に拾ったのは軍曹のポケットからこぼれ落ちた割れたサングラスと、血で汚れた弟の写真。写真の中の少年は、兄の死など知らずに笑っていた……。


 そして翌日5月2日。ベルリンは陥落し、その4日後、ドイツ第三帝国は連合軍に無条件降伏した。彼らの信じた時代は、終わった……。

÷÷ つづく ÷÷
©2000 Jun Hayashida
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