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§君の心に風の戻る日:第三章§

戦場に吹く風 (1)

著:林田ジュン

「風が強いな」
 吹き込んできた氷混じりの強風にアレクサンドルソ連陸軍少佐は顔をしかめた。仮の司令室として使われている簡易テントの入り口が開き、たった今伝令が駆け込んできた。瞬間的にストーブの温度が消え失せ、体感温度は氷点下にまで下がる。
「目前のドイツ軍は撤退を開始しました。進軍可能です」
 それだけ言うと伝令は再び吹雪の中へ消えて行った。それには言葉を返さず、少佐は手元の地図に視線を落とす。ヨーロッパの拡大地図。故郷モスクワからは遠く離れてしまった。
「もう……ドイツだな」
 誰に言うわけでもなく、呟く。
去年のクリスマスは家族とともに過ごせなかった。春が来るころには家に帰れるだろうか。そんなことを考えつつ、彼は外へ出た。容赦なく襲いかかる強風にヘルメットを目深にかぶり、少佐は自分の乗る戦車へと歩みを進める。独ソ戦が始まって以来、共に戦場を駆け抜けてきた戦友だ。
「進軍する。全軍に伝えろ」
 操縦は部下に任せ、少佐は目の前に広がるどこまでも白い大地を眺めていた。そんな中に、所々目を引く赤。それが血だという事は言われなくても理解している。ただ、それがどちらの兵士のものかまではさすがに近付くまでは分からなかったが。
 たまたま、少佐の戦車がそばを通りかかったのは、ドイツ兵の死体だった。死に顔はまだ若い。
「こんな所で……な」
 雪のこびりついた髭を撫で、そんな言葉が口をついた。
 死んだ若い兵士が哀れだとは思わない。これが戦争なのだから。実際、自分ももう何人のドイツ兵をあの世に送ったかなど覚えていない。しかし、割り切って考えている頭とは裏腹に、心のどこかに寂しい風が吹いているような気がした。
 戦争さえなければ、この若い兵士は死なずにすんだ。戦争さえなければ、彼は銃など取らずに違う夢を追えただろう。そして自分も、違う人生を歩んでいたかもしれない。
少佐は、釣りが趣味だった。戦場に、虹鱒はいない。
「まぁ、今となっては仕方がないか」
 呟きは、風が消していく。そして少佐は前方を睨んだ。
 まだ見ぬベルリンはこの雪の向こう。
 止まない吹雪が、戦車の轍を消していった。


 雪が降っている。雪は、虐殺の証拠を覆い隠すかのように厚く積もってゆく。しかし、それもいつかはとけるのだろう。少女は肩に薄く乗った雪をなんとなく払い、白い息を吐いた。
 彼女たちは列車を待っていた。ベルリンへの輸送列車。目の前では親衛隊員が名簿を片手に最終点呼を行っている。
 一年間過ごした収容所。来たときは夜だったので、外から建物を見るのはこれが初めてだった。
 楽しい思い出はなかった。
 いや、あったかも知れないが、少なくとも記憶には残っていない。ルーイとの日々も、もはや哀しい思い出でしかなかった。
 しかし、この場所を忘れるつもりはなかった。それよりも覚えておきたかった。ルーイがいたことを。マリアがいたことを。今はもういない、多くの人が生きていた事実を。
「私はまだ、生きている」
 呟く。
 だから、もういないみんなのことを、せめて私が覚えていよう。
 少女は顔を上げて収容所の建物を睨んだ。
 彼女はたまたま列の一番前にいた。そして偶然、前にいた親衛隊員と目が合った。彼女は彼に見覚えがあった。
 中尉。兄さんを殺した、中尉。
 思わず視線に憎しみがこもる。しかし中尉のほうは少女を覚えてはいなかった。彼はそのまま横を向くと、隣にいる人物と言葉を交わし始めた。
「寒いな」
 中尉が言ったのは、そんな台詞だった。少女は特にそれを聞くつもりはなかった。だが、兄を殺されたという事実が、無意識のうちに中尉の言葉を拾っていた。
「なら、中で待ってりゃいい」
 ペルゼンが中尉に返す。
「昨日から具合が悪いんじゃねぇか? 疲れてんだろ。風邪でも引いたか?」
 中尉はその問いかけにかぶりを振ったように見えた。
「そんなものではない。……もっとたちの悪い病気だ」
 そして十分に間をあけて絞り出すように言う。
「ユダヤ人を……撃てなかった」
 ペルゼンは何かを言う代わりにポケットからマッチを探して煙草に火をつけた。雪だけが、ただ静かに降っている。少女は思わず中尉の顔を見つめていた。
「おかしいだろう? 目の前の女と自分の母親が重なって見えた。……俺は、殺人機械と呼ばれているのにな」
 呟きは自嘲。軍曹の煙草の白煙だけが、雪に逆らって上に昇ってゆく。
「笑いたければ、笑っていいんだぞ」
 ペルゼンは、しかし何も答えない。
 少女はふと、兄が殺された日のことを思い出した。あの日中尉は、彼女に言った。「貴様らは人間か?」と。
 でもね。少女は思う。
 でもね、あなたも人間じゃないわ。
「あなたは、機械」
 心を持たない、冷たい機械。ねぇ?
 少女は自分でも気付かないうちに小さく呟いていた。中尉に何か言いたかったのかも知れない。笑いたければ笑え。そう言った、中尉に。
 どうして?
 どうして笑わなければならないの? そう言いたかったような気もするが、分からない。何にしろ、無意識だった。
 だって、人を殺したくないのは普通の感情じゃない。
 なのにあなたは何を恥じているの? どうしてそんな顔で、笑え、なんて言うのよ。
「やっぱりあなたは人間じゃないよ」
 人間だったら、人を殺せなくて悩んだりしない。
「あなたは、機械」
 かわいそうな、殺人機械。人を殺すことしか知らない、心の壊れた冷たい機械。
 ねぇ、かわいそうな中尉さん。だからどうして、笑え、なのよ。
「いいじゃねぇか。殺人機械にも休業日くらいあるさ」
 やっとペルゼンが口を開いた。煙草はずいぶん短くなっていた。
「ふざけたことを言うな。それは……許されない。許さない。……俺、自身がな」
 中尉の口調に自虐的な調子が強まる。少女の胸に、いつのまにか悲しみがやって来ていた。
 だからどうして機械なの? だからどうして、機械の名前が誇りなの? 
 わからない。私には。こんな狂気、わからない。
「それでも」
 信じていいですか? 
「だってあなたは撃てなかった」
 信じていいですか? 心が全部機械の人なんて、いないことを。だってそれだと、寂しすぎるじゃない。 
 そしてもう一度、二人の目が合った。今度は、少女は中尉を睨まなかった。

 それからしばらくしてリヒターが列車の到着を告げに来た。乗り込む直前、少女はなんとなく中尉の姿を探したが、群衆にまみれて見つけることはできなかった。
 雪は、相変わらず降り続いていた。


「ベルリンか……」
 車窓に流れる景色に頬杖をつき、中尉たちよりも一足先にベルリンへ向かったシュタイナー大佐は誰に言うともなしに呟いた。車の向かう先には、ブランデンブルクの凱旋門。ベルリンの中心だ。
「そうですね」
 運転席の部下が答えて、車の速度が心なしか落ちる。ベルリンの雪は、止んでいた。
「凱旋門をこんな気持ちでくぐりたくはなかったな。歴史の英雄たちは勝利と共にこの門をくぐったのだよ。だが我々は……死ぬために戻ってきた。ベルリンを……死守するために」
 門の上では銅像が無言で大佐の車を見下ろしている。
 我々は、ドイツは負ける。近い未来、ほぼ間違いなくそれは起こる。
 大佐は思いつく限りの部下の顔を思い浮かべてみた。
 すまない。
 最初に脳裏をよぎったのはそんな言葉だった。
 すまない。君たちに、未来を贈ることができなくて。輝く明日に、導けなくて。
「君にはきれいな奥さんがいたな」
「はい。もうすぐ息子が生まれます」
 大佐の問いかけに、運転席の部下はそのままの表情と声の高さで返した。
「もう別れは……済ませてきました」
 車を追いかける土煙は、どこか物悲しく、重く沈むように湿った虚空に漂っていた。

 そして少女は工場へ行き、中尉は戦場へ行く。

 1945年4月。ベルリンにはソ連軍がなだれ込み、街は戦場になった……。

÷÷ つづく ÷÷
©2000 Jun Hayashida
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