深く沈んだ意識が、ゆっくりと浮上していく。闇色に塗り込められた世界に漂う魂のように、ひどく
意識はどんどん浮上していく。
痛みも苦しみもないこの場所に留まっていたいのに。
己の還るべき場所など、もう何処にも残ってはいないのに。
見えたのは、質素な家の天井だった。
けだるい疲労感は残っていたけれど、身体に痛みはなかった。
ゆっくりと身体を起こす。
狭い部屋だった。明かりに困らないということは、朝か昼なのだろう。
手入れの行き届いた家具や調度がある。
掛けられていた布団を剥いで、違和感に動きを止めた。
部屋の空気が肌を刺すように寒い。変だわ。
何気なく視線をめぐらせ、簡素な窓の外を見て、自分の目を疑った。
「……雪?」
銀世界。
隣家も畑も、かろうじてその形が分かる程度に、雪が積もっていた。
山を拓いた村のようで、辺りを取り囲む背の高い木々も皆、雪の帽子を被っている。
「一体どういう事なの?」
これまでの経緯を思い出そうと思って目を閉じてみたけれど、山の中で眠った事しか思い出せなかった。
じっとしていても仕方がなく、恐る恐る床に立った。足にも異常はない。
部屋の入り口まで歩いて、扉をゆっくりと開いてみる。
細い廊下を挟んだ向かい側が開けていて、居間のような場所になっていた。
覗き込むと、長椅子を背にして、小柄なお婆さんが座っているのが見えた。
黙ったままでいると、私に気付いたお婆さんが、顔を上げた。
「あら、意識が戻ったのね。身体の具合はどう?」
笑顔がとても柔らかい。調子が狂うわね。
「……ここは?」
「王都アルファンから北東の山の中よ。あなたが倒れていたのを、お爺さんが見つけて連れて帰って来たの」
アルファンですって? 私は地理には詳しくないけれど、それでも、そんな場所に雪が降るなんてあり得ない事くらい知ってるわ。
お婆さんに促されて、部屋の中央にあるテーブルセットの椅子に腰を下ろす。それほど広い部屋ではないけれど、きちんと片付けられた綺麗な空間だった。
「それにしても、広い山の中で、よく見つかったわねえ」
放っておいてくれても、よかったのに。
「山賊の所から逃げてきて……」
「まあ、そうだったの。落ち着くまで、ここでゆっくり過ごすといいわ。お爺さんと私だけじゃ、広い家だから」
私を不審に思わないのかしら。でも、不審といえば、この寒さだわ。
こちらの部屋は暖かい。部屋の隅にある暖炉で、火が焚かれていた。
「ここは、どうしてこんなに寒いの?」
「外は見た?」
「雪が積もっていたわ。本当にアルファンの近くなの?」
「あ、そろそろかしら。ちょっと待っててね」
お婆さんは立ち上がると、居間から続く台所に向かった。
所在なく暖炉の炎がはぜるのを眺めていると、お婆さんが戻ってきた。
「どうぞ。あったまるわよ」
テーブルに、皿が置かれた。湯気の上がる野菜のスープだった。
「こんな寒い場所なのに、野菜も作れるの?」
「少し低い場所に畑があるのよ。山奥だから、被害に遭う心配もないわ」
とってもいい匂い。お婆さんの説明を聞くのもそこそこに、スープに口をつけた。
「……おいしい」
こんなにおいしいスープは飲んだ事がない。自分で作ったものを過大評価していた訳ではないけれど、お父さんの所にいた時だって、こんなスープは飲んだ事がなかった。
あっという間に平らげてしまうと、お婆さんが笑った。
「まだまだ、たくさんあるわ。急ぐと身体によくないから、ゆっくり食べなさい」
夕方になると、この家のお爺さんが帰ってきた。
「婆さん、今日は鹿が捕れたぞ!」
「まあ。ちょうど良かったわ。それじゃあ、すぐに支度するわね」
獲物を受け取ったお婆さんが台所に向かい、お爺さんが居間に入ってきた。
「おお、起きたのか。よかったよかった」
ふさふさの白髪を短く苅り、口ひげを蓄えた、実年齢よりずっと気持ちの若そうなお爺さんだった。
壁に弓と矢筒を立てかけ、上着を脱いでラックのハンガーにかける。
私のいるテーブルの所まで来ると、椅子に座って、懐から煙管を取り出した。
慣れた所作で煙をくゆらせるのを、ぼうっと眺める。
「あの……」
「何じゃ? ワシと婆さんの馴れ初めか?」
「なぜ、雪が降るの?」
お爺さんが、煙を吐く。
「理由は分からん。ワシらは元々、この山のふもとにいたんだが、ワシらが生まれるずっと前から、同じ場所に一年中雪が積もっておった」
どうしてわざわざ、こんな所に住む事にしたのかしら。
首をかしげると、お爺さんは口ひげをさすった。
「フアリバの木を知っておるか?」
「鎮痛剤になる木の実でしょう?」
北国の植物だから、こっちではなかなか手に入らないって、兄さんが言ってたわ。
「それを栽培しておるんじゃ。高く売れるからのう」
入り組んだ山の中らしく、標高もそれほど高くないせいか、街道からは見えないらしい。
この山が属する山系の奥地には、確かに雪を頂く山もある。手前にたくさんの山があるけど、それらを軽々と見おろせる程に高さがあり、晴れた日にしか山頂を拝むことは出来ない。
「お肉が焼けたわ。食事にしましょう」
お婆さんが、手際良く皿をテーブルに並べていく。お昼と同じ野菜のスープに、こんがり焼けた鹿肉。
兄さんといた村を出てから小食が続いていたから、喉を通るかどうか心配だったけれど、久々の温かい食事はすんなりお腹におさまった。
それから、酔ったお爺さんに、お婆さんとの馴れ初めをしっかりと聞かされた。
地面に降り積もった雪が、陽光を反射して眩しい。
雲一つない一面の青空だというのに、ちらちらと雪が降っていた。
何人かの白く透き通った氷の乙女が、頭上で優雅に舞っている。
「美しき氷の娘よ」
精霊の言葉で告げると、舞っていた中の一人が降りてきた。
「このような温かい場所で舞うは危険であろう。何がそなたらを、この地に留め置くのだ?」
氷の乙女は、再び空に舞い上がった。
「言いつけられておりまする」
「契約か。何を守護せよと?」
精霊は、答えない。
「答えよ」
私に逆らうなんて、許さないわ。
「遺跡の鍵だと申しておりました」
「鍵? そんなものが、この地に?」
「地中に埋もれた
地下。それを隠す為に、雪を降らせていたのね。
彼女たちをこの地に留めた契約者も、栽培目的で人が住むなんて思ってもみなかったでしょうね。
「そう。いろいろ聞いて悪かったわね。続けて頂戴」
なんの遺跡かは知らないけれど、私にとっては、どうでもいい事だわ。
降り積もったばかりの雪を踏みながら、村の様子を見て回る事にした。
村といっても、家屋らしい建物は四、五軒だけ。冊に囲まれた広い敷地には、腰の高さ程度の木がたくさん植えられていた。雪に埋もれた葉の中から、ところどころ赤い実がのぞいている。
氷の精霊の舞いを眺めていると、雪のない畑から収穫を済ませたらしい農夫が、村に入ってきた。初老の男の人だった。
「おや、あんた、爺さんが担ぎ込んできた……。もう元気になったのかい?」
「ええ」
「変わった場所で、びっくりしただろう? まあ、気の済むまでゆっくりしていくといい。おっと、これを婆さんに渡しておいてくれないか?」
おじさんは一方的に告げると、大きな玉ねぎを幾つか私の手に乗せて、通り過ぎてしまった。
玉ねぎを持って家に戻ると、お婆さんは喜んで受け取った。
「まあ、こんなにたくさん。何にしましょう」
「スープがいいわ」
ここに来て初めて口にした、野菜のスープ。
「分かったわ。じゃあ、一緒に作りましょうか」
「うん」