丸い月が、茫洋とした暗闇に浮かんでいる。
街道が月明かりを帯びて、むき出しの土が青白く照らされている。
広い道は、行くあてのない私を嘲笑うように、どこまでも続いていた。
霧を含んだ冷たい夜気は、兄さんと別れ、あの村を出た時のことを思い起こさせる。
浮かんだ情景を振り払うように、重い心を引きずりながら歩き続けた。
どの位、進んだだろう。少し休憩しようかと立ち止まって、空を仰いだ。
月が出ているせいで、星の輝きが弱く感じられる。
今にも消えてしまいそうな星の瞬きを、じっと眺めた。
「……?」
静かな夜に相応しくない生き物の気配が、街とは反対側の街道から届く。
松明の明かりと馬蹄の音が近付いてくる。
人間だわ。見つかったら、また街へ連れ戻されてしまうのかしら。
迂闊だった。私が動くより先に、あちらが私に気付いた。
「女だ」
「こんな夜更けに何してるんだ?」
駒の速度を落とし、私の前で止まる。
旅人にしては軽装で、皆同じような格好をしている。それに、雰囲気が、私を街へ連れて行った人間たちとは全く違った。
月光でも分かる浅黒い肌に、無造作に伸びた髭。清潔でなさそうな汚れた服をだらしなく着ている。
馬に跨がった男たちが、周囲を取り囲んだ。
すぐに攻撃してくる風でもなく、じろじろと不躾な視線をこちらに向けてくる。
生け捕るつもりのようだけど、今度はそう簡単には捕まってやらないわ。
全部で六騎。分散している上に数が多い。これじゃあ、あまり効率がいいとは言えないわね。
「なかなかのタマじゃねえか。高く売れそうだなぁ」
予想に反して、間延びした声が降ってきた。
「こんな時間に一人で、怪しくねえか?」
「街のモンでもなさそうだ。おおかた仲間とはぐれたんだろうよ」
「可哀想に。怯えてるじゃないか」
「お前の顔が怖いからだろう」
「何!? もういっぺん言ってみやがれ!」
汚らしい男たちから、下卑た笑い声がわき起こる。
「わざわざ夜明けを待つ手間が省けたな」
「そのつもりなら、お頭に差し出さなきゃならなくなるぞ?」
「俺としては、内々にしておきたいねえ」
男たちが、何かを相談し始める。
人を止めておいて、なんて無礼な奴らなのかしら。
「私に用があるなら、さっさと言いなさい!」
正面の男を睨むと、男たちは水をうったように静かになった。
「嬢ちゃん、口の聞き方を知らねえようだな」
左にいた男が、一歩、駒を進めてくる。負けじと睨み返し、右手を掲げた。
「決められぬのなら選べ! かかってくるか、さもなくば、今すぐ立ち去れ!」
どうしていつも、一人になれないのかしら。こんな事なら、街道なんて歩かずに山に入った方がよかったわ。
左側にいた男が、正面の男を見る。どうやら彼がリーダーのようね。
男は口を歪めて笑った。
「気に入ったよ、嬢ちゃん。あんたの相手は、オレたちじゃねえ。お頭だ」
男が、私の背後をちらりと伺う。
「!?」
突然、背後から首を絞められた。
抗う手も、壮年の男のそれにはかなわず、意識が途切れた。
規則的な、けれど、あまり心地よいとは言えない振動が、徐々に意識を現実に引き戻していく。
不自然な姿勢だった。後ろ手に手首を縛られ、手入れのされていない、ざらついた馬のたてがみに顔を伏せている。両足首をまとめて縛られている為、馬の腹の片方に足を流し、上肢をひねった格好だった。
「う……」
喉が素直に空気を吸ってくれず、軽く咳き込んだ。首を絞められたんだったわ。
ふつふつと怒りが込み上げてくる。
「嬢ちゃん、案外タフだな」
すぐ背後で男の声がした。リーダーの声だ。
手が使えないので、うまく身体のバランスが取れず、額を馬のたてがみに擦り付けたまま、身体をずらして背後を睨んだ。
「私を、どうするつもり?」
「オレたちのアジトにご案内するのさ」
男が肩をすくめた。
冗談じゃないわ。私が諾々と従うとでも思っているの?
睨んだ先に、立ち並ぶ木々が見えた。月明かりの中に浮かぶ樹影は青みを帯びて、遠近感が掴めない。
湿った落ち葉を踏みしだく馬蹄の音だけが、どこまでもついて来る。
手は使えない。詠唱も怪しまれる。
(どうしよう……)
記憶の糸を手繰り寄せてみる。
お父さんは、どちらも使わずに精霊を呼んだ事があった。
――思念が強ければ、懇意にしている精霊であれば応えよう。
手続きもなく突然現れた精霊の王に驚く私に、お父さんはそう教えてくれた。
私にも、出来るかしら。
不安が頭をかすめる。それを振り払うように、きつく目を閉じた。
出来ぬとあっては、魔王の娘の名折れ。これも、与えられた機会だわ。私を捕らえたことを後悔しなさい。
(寛容なる森の主よ。我が声、届くか)
少しの沈黙の後、自分のものではない意志が流れ込んできた。わき水のように浸入してきたかと思えば、一気に濁流となって渦を巻いた。なんとか己を保ちながら、同調を試みる。
(これはクラリオンの
心得を持たぬ者なら、完全に意識を呑み込まれてしまうであろう、圧倒的な精霊の力だった。
(不調法な頼み方だが、力を貸して頂きたい)
ちゃんと声になっているかしら。
(構わぬぞ。あまり大それたことは御免被るがのう)
私がおとなしくしていると思っているのだろう。背後の男は、べつに何も仕掛けてこない。
「うわっ!」
後方で、男が叫んだ。直後に鈍い音を立てて、馬の背から落ちる。
「おいおい、何やってんだ」
「くそっ! 取れねえ!」
転げ落ちた男の様子が尋常でなかったのか、一行は歩みを止めた。
「蔦だ! 蔦が首を絞めるんだ! 助けてくれ!」
「蔦ぁ?」
「幻覚でも見えてるんじゃねえか?」
松明を持っていた男が、地面に落ちた男を照らした。
高枝から垂れ下がる蔦が、意志ある生命のように蠢いている。
「何だこりゃあ!?」
「化け物め!」
側にいた一人が、短剣を抜いて蔦に斬り掛かる。
「何っ!?」
別方向から伸びてきた少し太めの蔦が、短剣を振り上げた男の胴を締め上げた。
「くそっ! ものすごい力だ!」
他の男たちは、怖れを為したのか動きを止めた。
(殺してはならぬ。できるだけ時間を稼ぐのだ)
(ほう。うぬも随分と趣向を変えたのう。親父殿の影響か?)
(冗談はよして。失敗は許されないのよ)
「どういう事だ?」
私の背後にいる男が、剣の柄に手をかけた。
「動くな」
こんな姿勢じゃ迫力がないから、精一杯に凄みをきかせる。
男は私の言う通りに、手を止めた。
「次に動いた者の
「……あんたの仕業か」
男の目が、初めて驚愕に見開かれた。
周りの男たちにも声は届いたようで、たちどころに悲鳴を上げる。
「た、助けてくれぇ!」
「動くな!」
背後の男が仲間を叱咤した。
静かになったところで、短剣を取り出して、私の手と足を縛っていた縄を切る。
痺れた手を二、三度軽く握ってから、身体を起こした。
「あなたの為に用意した蔦には毒があるそうだわ」
馬の背から飛び下りる。
「約束は守ってもらうぞ」
「そうね。でも、私だけが気絶したなんて、割が合わないと思わない? とっても苦しかったのよ」
「どうすればいいんだ。街まで戻るのか?」
「私は自分のしたいようにするわ。あなたたちとは、ここで別れたいんだけど」
「ああ、そうしてくれ」
男が溜め息をつく。
「森の王、ありがとう。もういいわ」
精霊の言葉で告げると、後方で蔦に拘束されていた男たちが地面に投げ出された。
自由になった意志で、今度は光の精霊を呼ぶ。
松明のものとは明らかに異なる白い光の出現に、男たちが息を飲む。
「一体、どうなってるんだ?」
「あなたたちとは、お友達の種類が違うのよ」
「……みたいだな」
「じゃあ、さようなら」
進行方向には、彼らの
精霊の王と交信したせいで、随分と精神を消耗したようだった。思考に霞がかかったように頭が重く、足取りがおぼつかない。
「まったく、散々だったわね」
適当な場所を探して夜が明けるのを待とう。
山賊が使っているのだろう、地面の出ている細い道から逸れた斜面に、柔らかそうな草の茂る窪みを見つけて、身体を休める事にした。