そして、一年と少しが過ぎた。
少女は毎朝、朝食を持ってやってきた。はじめは朝の挨拶だけだった会話も、時がたつにつれて少しずつ増えていった。
「ねぇ、中尉さん。私昨日ね、ベルリンの街を散歩したんだ」
朝食を机に置き、少女がそう言った。朝食のメニューは、一年たっても同じだった。
「いろんな店があるのよ。私、アイスクリームなんて初めて食べたわ」
甘い味を思い出し、少女の頬が緩む。
「それに、私を見ても誰ももう意地悪しないの」
言いながら少女は収容所の生活を思い出していた。ドイツは変わった。そして、あなたも。少女は中尉を見た。中尉はコーヒーに口をつけている。あなたは前より、よく笑うようになった。
「中尉さん、早くここから出られるといいね。ベルリン、楽しいよ」
頬杖を突き、少女が微笑んだ。
その日の夜、中尉は自分の軍事裁判が一ヶ月後に予定されていることを少佐から伝えられた。少女がそれを知ったのは、翌日の朝だった。
少女は東ベルリンの街を歩いていた。昼間、ここを散歩するのが最近の日課だった。終戦から一年以上がすぎた今でも、道路には砲弾の跡が残り壊れた建物が目に付く。それでもそれ以上に、道の脇に並んだ花屋や食べ物屋が彼女の目を楽しませてくれた。香ばしい香りにつられて足を止めると、露店の主人がウインナーを焼いていた。
「おいしいよ」
目が合った少女に微笑みかける。受け取ってかじりながら、少女は中尉の朝食のことを思い出した。一年間、黒パンにコーヒー。たまに卵が付くこともあるが、基本的に変わらないメニューだった。
「中尉さん、熱いウインナー食べたいだろうな」
そんな独り言を呟く。中尉の夕食を、彼女は知らない。だが、このウインナーよりもおいしいものが出されている気はしなかった。ほかにも、露店に並ぶ果物。多分、中尉はこの味も知らないはずだ。そう思いながら梨を買って前歯を立てた。熟す前の酸っぱさが好きだった。
しばらくして、彼女は足を止める。道端でアクセサリーを売る女性がいた。その中に、水色のネックレス。太陽の光を受けて光るアクアマリンは、イルカの形に加工されている。そして少女は今朝聞かされた中尉の裁判のことを思い出した。
「一ヶ月後、か」
気が付くと、少女はイルカのネックレスを二つも買っていた。
「これ、お守り。明日の裁判、勇気が出るようにって」
裁判の前日、少女はそれを中尉に手渡した。そして自分の胸を指す。そこにも同じイルカが輝いていた。
自分のぶんも買っちゃったんだ。そう言って少女は舌を出して笑った。
法廷は静まり返っていた。中尉の周りをソ連軍の関係者が囲んで座っている。彼らは中尉に容赦はしなかった。収容所でユダヤ人の「処分」を決めたことを中心に、どこで調べてきたのか、中尉が部下の少尉を撃ち殺したことまでが繰り返し尋ねられた。そのどれもが彼にとってつらい質問ばかりだった。
そして中尉は上着のポケットを布越しにそっと触った。そこには水色の、イルカ。中尉さん、がんばって……。そんな少女の声が、聞こえた気がした。
中尉に対する判決は、二ヶ月後に出ることになった。
硬い槌の音が二度、静まりかえった法廷を揺るがす。
「判決を言い渡す」
裁判官の台詞を、通訳が抑揚のない声で中尉に告げた。中尉は水色のイルカを握った右手に、少し力がこもるのを自分で感じた。そして彼は瞳を閉じ、次の瞬間を待ち。
「中尉。貴官を……絞首刑に処す」
空気が一瞬緊張した。中尉の手から音を立てて転がったのは、あの、イルカだった。
すまない。
とっさに胸中で謝った相手は少女だった気がする。
「この判決に、異議はあるか?」
できることならもう少し、君とともに生きたかった……。
「……ありません」
少女は彼のために、泣いてくれた。
死んでしまったら何もかも、忘れてしまうのですか?
彼女のことも、忘れてしまうのですか……?
収容所の中庭。そこに、急ごしらえの処刑台がある。そして、中尉が立っていた。死を前にして、驚くほどに落ち着いて。
「残す言葉はありますか」
隣に控えた牧師が尋ねる。
「いいえ」
短く答える。だがしかし。ただ一つだけ、悔やむことがあった。自分のことを「中尉さん」としか呼ばなかったあの少女に、名前を伝えておきたかった。そして、彼女の名前を聞くことを忘れた。
君はいつまで「中尉さん」を忘れずにいてくれますか?
「中尉さん」はいつまで、君の心で生きられますか?
「ありがとう」
無意識に、しかしすべての思いを込めて中尉は呟いた。
「汝神の子」
できることなら君と共に、明日の朝日を見てみたかった。
できることなら君と並んで、未来の風を感じたかった。
水色のイルカは、もう何も言わない。中尉の時間はここで終わり、少女のそれはこれからも続いて行く。
「汝に神の御加護のあらんことを」
さよなら。そして、ありがとう。願わくば君に、幸せを。
中尉の首に、太いロープがかかった。中尉は瞳を閉じ、一つ大きく息を吐いて。
ペルゼン。今、行くからな……。
そして……。
「あ」
突然チェーンの切れたイルカを握り締め、少女はその場に膝を折った。吹き抜けた風の中、名前を知らない中尉の声が、聞こえた気がした。