また、夢を見ていた。黒い手の、夢。無数の黒い手が押し寄せてくる、そんな夢。
クルシイ。タスケテクレ。
苦痛が一つの塊となり、頭の中で鈍く反響している。その苦痛は、しかし夢の持ち主のものではなく。
カエシテ。ワタシノアシタヲ。ボクノユメヲ。
それは、彼に命を奪われたものたちの嘆きの声。数え切れない死者たちの悲痛だった。
イキテイタカッタ。シニタクナカッタ。
悲しみ、憎しみ、怒り。抑え切れない負の思念。夢の中の黒い手は、まるで、そうすればすべてから解放されると信じているかのように夢の本体である中尉の心に迫ってきた。
カエシテクレ、スベテヲ……!!
そしてそれは静かになるどころかますます激しさを増し。
「!!」
声にならない悲鳴をあげ、中尉は飛び起きた。着ていたシャツは汗で湿っていた。重いため息を吐き出した後、中尉は壁に身を預ける。伝わる冷気が心地よかった。
ベルリン郊外、ソ連軍占領地にある捕虜収容所。
ドイツが負けてから、夜が何度も終わった。ペルゼンが死んだあの日から約一ヶ月が過ぎ、季節はすっかり冬を忘れたようだった。窓の外に見える木々の新緑は、遅いドイツの春を楽しんでいるかのようだった。中尉の肩の傷はもうほとんど癒えていた。
彼には個室が与えられていた。捕虜の多くがソ連へ連行された今、しかし中尉はまだベルリンにいることを許されていた。理由は分からないが、彼が今やあのユダヤ人収容所の最重要参考人となっていたからかもしれない。シュタイナー大佐は、敗戦の日に自殺した。
自分たちのやってきたことは間違いだったのか?
胸中に自問してみる。返答は、ない。ただ、ペルゼンの顔と、母親に似た声をしたユダヤ人女性の歌声がよみがえっただけだった。
血塗れの王国は崩壊した。しかしそれでも自分の手を濡らした赤い血は消えず、犯した罪は浄化されない。理由もなく胸が苦しい。時間は、あの日から止まったままだった。
いつまで苦しめばすむのだろうか?
鈍い、胸の痛みに。そして先程の夢を思い出し、思わず口元を押さえた。
死ぬと、何もかも忘れられるのだろうか?
もう苦しまずにすむのだろうか?
くだらない、しかしどこか魅力的な考えが脳裏を過ぎる。その時、部屋のドアが軽くノックされた。
ソ連軍兵士が朝食を運んでくる時間だった。
だが、今朝のノックの音はいつもの兵士のものとは少し違う気がした。そして扉が開き。中尉は、その人物に見覚えはなかった。
少女は、扉の向こうの人物に見覚えがあった。
右手に持った黒パンとウインナー、それにコーヒーの乗ったトレイが思わず小刻みに震えた。そこにいたのは中尉だった。予期せぬ再会に、扉を閉めることすら忘れて立ち尽くす。
彼女はあの後、ソ連軍に解放されたベルリンで生きて行くための努力をした。しかし、ベルリンは廃虚。仕事もなければ食料もない。そして彼女には、もう戻れる故郷すらなくなっていた。彼女を迎えてくれるはずの家族は、もういない。一緒に歩いてゆける友人も、もういなかった。そして彼女はソ連軍を頼った。雑用係を買って出て、もらった仕事は敷地内の掃除。
少女は、唾を飲み込んだ。しかし、口の中は乾いてしまって、喉が大きく動いただけだった。たまたま今朝は、食事を運ぶ係の兵士が時間になってもやってこなかった。そして彼女が偶然そこにいた。少女は複雑な気持ちで引き受けた。ドイツ兵にはあまり会いたくはなかった。
そして、中尉がいた。
少女は部屋に入るまでそのことは知らなかった。扉を開けたらまず朝の挨拶をしよう。そう考えていた頭は真っ白になり、思考は停止してしまったようだった。生きていたんだ。そう思うのと同時に、彼が兄を殺した場面がよみがえる。忘れようとしていたルーイの笑顔までがちらついた。
「兄さんを返して」
気がつけば少女はそんなことを口走っていた。とっさに、あの雪の日に中尉が「撃てなかった」と言っていたのを思い出して口をふさごうとしたが、もう止まれなかった。朝の挨拶は、完全に忘れてしまっていた。
「私はあなたを知っているわ。あなたのいた収容所に、私もいたのよ。兄さんはあなたに撃たれたわ。兄さんを返して。妹を返して。ルーイを返して。ルーイはとても絵が上手かったのに」
感情が高まりすぎると、口調は平淡になるのだろうか。少女のそれは、台詞の棒読みに近かった。
中尉は何も答えない。ただ、視線が少女から逸れて虚空をさまよった。言い訳の台詞や開き直った罵声など、少女に対しての返答の候補がいくつも瞬時に浮かんだが、そのどれもがふさわしくないように思え、結局中尉の口から発せられることはなかった。即興のその場しのぎが通じるとは思えなかったし、それができるはずだった昔の自分は、もういなくなっていた。
そのまま数分が過ぎた。相変わらず中尉は黙ったままだった。そして少女もそれ以上は何も言わなかった。
その時、少女の後ろから人影が現れた。その人物には見覚えがあった。アレクサンドル少佐。少佐は中尉の尋問を担当しており、まだソ連に戻ってはいなかった。彼は少女が朝食を運んで行ったことを聞いて、心配して見に来たらしかった。一歩、部屋の中に入って硬直したままの少女の肩に手を置く。
「どうした?」
その瞬間、中尉の視線はすばやく動いた。少佐の腰のベルト。銃。そして中尉は。
「きゃあ!?」
中尉の肩がぶつかり、少女が叫んだ。その拍子にトレイの上のパンが落ち、床に転がる。中尉はほとんど無意識だった。銃。
あまりの突発さに少佐が我に返ったときには彼の銃はすでに中尉が握っていた。慌てず半歩踏み出し、少女をかばい。
死んだら全て忘れられますか?
死んだら楽に、なれますか?
しかし少佐の予想とは逆に、中尉は銃口を自分に向け、引き金に指をかけたまま震えていた。
死んだら、苦しまずに、すみますか……?
だが彼に、ヒルダのような勇気はなく。そのままゆっくりと銃口が下がり、中尉は床に手をついた。
「馬鹿なことを考えるな」
ため息といっしょに、少佐は中尉の手からいとも簡単に銃を奪い取る。少女はただ、見つめていた。目の前にいる中尉は、自分の知っている中尉ではなかった。彼は変わった。中尉の瞳からは、以前感じた鋭さは消えていた。殺人機械は、少しは人間になれたのだろうか?
「ねぇ」
無意識のうちに、一歩。
「死んじゃ、だめ」
ふと口をついて出たそんな台詞に、少女は自分でも少し驚いた。
「誰かが死ぬのは、もう見たくない」
彼女の目の前で、兄は死んだ。妹も、ルーイも、もう戻らない。
「死にたいなんて、思わないで」
兄さんは、生きていたかった。ルーイも、そうだった。なのに目の前にいるこの中尉はその反対のことを望んでいる。わからない。この人の気持ちが。
だがそれでも以前よりは分かる気もする。殺人機械の、中尉よりは。
「何故だ?」
今度は中尉が少女を凝視する番だった。彼にも分からなかった。自分に死ぬなと言ったユダヤ人の少女の心が。
「俺は親衛隊員だぞ? お前の敵だ。何故、死ねと言わない?
憎くないのか、この俺が!?」
最初は平淡だった口調は次第に跳ね上がり、後半はほとんど叫んでいた。アレクサンドル少佐はそんな二人を黙って見ている。
「確かに、はじめは殺してやろうと思ったわ。あなたが兄さんを殺した日」
一呼吸置いて、少女が言う。そして、窓にはまった鉄格子の向こうのベルリンの街並みを見つめた。復旧工事が始まっているのだろう、鉄を叩く音が聞こえてくる。
「でもね、あなたを殺したって何にもならない。兄さんもルーイもエヴァも、帰ってくるわけじゃない」
中尉は、床に膝をついたままの姿勢で少女を見ていた。横顔は、綺麗だった。
「あなたを殺しても、悲しみは消えないわ。それに……人を殺したら、今度は別の人が悲しむじゃない。それは……寂しいから。戦争は、もう、終わったの。憎しみ合う時代は、終わったんだ……」
どこか自分に言い聞かせるように行った少女の髪を、6月の涼しげな風がそっと撫でて行った。そして、中尉の頬を涙が滑った。理由は、分からない。ただ、少女の呟きが胸に痛かった。彼女はそれ以上何も言わず、朝食を置くとそのまま部屋を出て行った。
一度は少女に付いて部屋を後にしたアレクサンドル少佐だったが、しばらくしてワインを片手に戻ってきた。ここを占領したとき、ドイツ軍の物資の仲に混ざっていたやつだ。中尉は先程の姿勢のまま虚空を見つめている。
「飲め。少しは楽になる」
言って中尉を立たせ、持ってきたグラスにワインを注いだ。
そう言えば、ペルゼンに酒をおごる約束をしていたな。揺れるワインレッドを見つめ、ふとそんなことを思い出した。あの日拾っておいた軍曹の弟の写真を取り出した。それはペルゼンの血で汚れていて。あどけなく笑う写真の中の少年は、兄の死を知ったのだろうか?
脳裏にペルゼンの姿が蘇る。しかし、もう手は届かず。
人が死ぬと悲しいでしょう?
それならどうして、あなたは誰かを殺すのですか?
中尉の頬をもう一度、涙が滑った。
その日の夕方、少女はアレクサンドル少佐の部屋を訪ねた。明日の朝も、中尉に朝食を運びたかった。
「中尉さんはもう、殺人機械じゃないわ」
先程の中尉の姿を思い出す。涙が、綺麗だと思った。