鮮やかな草の波が風に誘われて、さわさわと囁いている。
辺りを山林に囲まれた、数えるほどの畑と家屋しかない、小さな村。
年を通じて温暖な気候に恵まれた豊かな土地は、暦が秋を指しても、緑の衣を脱ぐことはない。
畑の側に立つ大樫の根元に座って、形を変えていく雲の切れ端を、ぼうっと眺めていた。
クラリオン大戦から二ヶ月。
魔王が滅び、世界に平穏が訪れた。
私は、妖魔の王に拾われ、娘として育てられた。
お父さんは、私の誇りだった。本当の親の顔なんて知らないけど、幸せだった。
お父さんが誤った道に進んでいるのだと知ったのは、つい最近の事だった。
お父さんを説得するために、私は、“勇者”として旅を続けている兄さんの力を借りた。
でも、私は、お父さんを救えなかった。
お父さん――魔王の最期の姿が蘇る。
私の行動は正しかったんだろうか。
ほかに道はなかったんだろうか。
お父さんを失ってから、そんな事ばかり考えていた。
行き場を失った私は、魔王を倒して世界を救った勇者であり、たった一人の肉親である兄さんの手を取った。
山奥の小さな村で土を耕し、その日の糧を得る。
人にも妖魔にもかかわる事なく、ひっそりと暮らせる環境が私には必要だと、兄さんが連れてきてくれた。
傾きはじめた太陽が、眼前に広がる森の影を引き延ばす。もうすぐ、頭上の雲も赤く染まっていくだろう。
遠くから聞こえてくる鳥のさえずりに耳を傾けていた。
「ミーア、いつまでそんな所にいるんだ。水やりは終わったのか?」
突然呼びかけられて、驚いて顔を上げる。
鍬をかついだ兄さんが、呆れたように溜め息をついた。
「水やりなら、ちゃんと済ませたわ」
二歳で魔王軍に拾われた私は、人間の言葉はあまり得意ではない。
小さい頃にお父さんから貰った耳飾りを使っているから、兄さんとの会話に困る事はないけど、不自然なものを感じてしまう。
「帰ってこないと心配するじゃないか」
「水の入ったバケツが重くて……」
立ち上がって、服についた草を払う。空になったバケツを下げて、兄さんに並んだ。
「兄さんこそ、鍬との相性はいいの?」
「これが結構くせ者なんだ。それなりに鍛えているつもりだったんだが、使う筋肉が違うみたいだな」
苦笑混じりに兄さんが答えた。
隣家の農夫に畑の作り方を教わり、土を耕す。これまで、兄さんの手に握られていたのは、常に長剣だった。
「兄さんなら、すぐに慣れちゃうわよ」
「誉めたって、バケツは運んでやらないぞ?」
「分かってるわ」
畑を挟んで、大樫と反対の位置に、質素な小屋が建っている。
村の人たちが譲ってくれた、私たちの家。
小屋の壁に鍬を立て掛けた兄さんが振り返った。
「隣のおじさんから芋を分けてもらったんだ」
「じゃあ、シチューにしましょうか」
「そう言ってくれると思ったよ」
兄さんは笑いながら家に入っていった。
いつものように、あり合わせの朝食事を終えて、食器を片付けた。
「いい天気だな」
兄さんが、窓の外を眺める。
「洗濯物が、よく乾くわ」
「手伝おうか?」
「一人でするわ。兄さん、力を加減しないから、服がボロボロになっちゃうのよ」
洗濯かごを抱えて外に出る。
日射しを浴びながら、木の枝に張ったロープに、洗濯物を干していく。
お父さんの所にいた頃は、身の回りの事は、全て妖魔の仕事だった。
最近になって、炊事も洗濯も、兄さんの手を借りずに、なんとか出来るようになった。
洗濯物を干し終えて家に戻ると、部屋の真ん中で、兄さんが黙々と腕立て伏せをしていた。
「……何してるの?」
「ああ、急に剣を使わなくなっただろう? 身体が
最後まで兄さんに付き合った相棒は、部屋の隅に立て掛けられたまま、永い眠りにつこうとしている。
「じゃあ、あの剣も使えば? せっかく立派な物なのに」
「生活していくだけなら、ナイフで十分だ」
「でも、まさかの時だってあるかもしれないし」
「剣は、説得の道具にはならない」
“娘”だった私でさえ、お父さんを止められなかった。
「……兄さんは、世界を守るための“剣”だったのよ。私と兄さんじゃ、お父さんを阻止する目的も違ってたでしょう?」
兄さんが、腕立て伏せの手を止めて、立ち上がる。
「人は、同族同士でも争いを起こす。おまえは、それが分からないと言った」
「……ええ」
「僕にだって分からない。でも、僕は目的を果たしたんだ。だから、もう戦う剣は必要ない」
私は、兄さんがどんな冒険を重ねてきたのかは知らない。私と同じ褐色の瞳からは、なんの表情も読み取ることができなかった。
昼になって、兄さんと一緒に、動物よけに畑を囲う柵を作っていた。
「こんな低い木の柵で、本当に防げるの?」
「イノシシだったら、これで十分だ」
「イノシシじゃなかったら?」
「ミーアは番兵でも置くつもりか?」
兄さんが豪快に笑う。
口を尖らせて睨むと、意識して笑いを引っ込めた。まだ口許が笑ってるんだけど……。
「大丈夫だよ。この辺りじゃ、イノシシが最強だ」
兄さんが、出来上がった柵を手に取って眺める。
「僕の腕もなかなかだと思わないか?」
「イノシシに、馬鹿にされないといいわね」
散らかった木片をほうきで集めた。
「同じものを、たくさん作らなきゃいけないな」
「作物が実るまでに、間に合うかしら?」
「間に合わなかったら、僕が番兵に立つよ」
揺れる兄さんの肩を叩く。
「もう、そんなに笑わなくたっていいじゃない」
「ごめんごめん」
兄さんが苦笑しながら立ち上がる。
出来上がった柵を壁に立てかけて、背伸びをした。
木屑を拾おうとした刹那、背後で、空間が歪んだ。
空気を震撼させる衝撃に、反射的に振り返る。
「何!?」
空間の歪みから膨大な光が溢れ、視界を奪う。正視できなくなって顔を背けた。
部屋を埋め尽くした光の洪水が、ゆっくりと消えていく。
「初めまして。勇者。そして、魔王の娘」
「誰だ!」
兄さんの声につられて、顔を上げる。
部屋の中央に、男が一人、立っていた。
人間の顔は、そんなにたくさん知ってる訳じゃないけど、こんなに綺麗な人を見たのは初めてかもしれない。もちろん、一番はお父さんだけど。
ヘーゼルの瞳が、兄さんに向けられる。
腰の辺りまである金髪が、風もないのに、ふわふわと舞っている。人間……なのかしら?
兄さんが私を背中に庇いながら身構える。
金髪の青年が微笑んだ。
「このたびの働き、ご苦労さまでした」
「……あなたは一体?」
兄さんも戸惑っている。
警戒するには、青年の放つ気配は穏やかすぎた。
けれど、私は、青年の微笑に畏怖を感じた。お父さんに対する畏敬とは違う、絶対者に対するような、心の底からの怖れ。この人には逆らう事が出来ないと、本能が感じ取った。
「私には、告げるべき名がありません」
「僕に用ですか?」
青年が頷く。
「あなたは、裏混沌の力を使う」
抑揚のない声に、再び兄さんに警戒が戻る。
「何を仰りたいんですか?」
「あなたの使命は、まだ完全に果たされた訳ではありません」
青年の微笑は消えない。
「世界の均衡は保ったわ!」
突然現れて、何を言うのかと思えば……
まだ兄さんを使うつもりなの!?
「あなたは誰!?」
「私は、この世界を創造せし神に遣わされました」
「……創造の、神?」
兄さんを必要としているのは、神様なんだ。
「使命とは、何ですか?」
凛とした声が、思考をさえぎる。
青年が兄さんに向き直った。
「あなたが使った裏混沌の力を、あなた自身が封じなければなりません」
「それは確かに、僕の責任だな」
「兄さんは、望んで裏混沌を使った訳じゃないわ。どうして責任なの?」
青年を睨むと、ヘーゼルの瞳が、少し悲しげに私をとらえた。
「“勇者”である者にしか、扱えないからです」
「そんな……」
黙ってしまった私から、兄さんに視線を戻す。
「しかし、封印の力を持つのは聖者のみ」
「聖者?」
「ええ。ですが、あなたは“勇者”です」
「だったら、どうするんですか?」
「――転生、つまり聖者に生まれ変わるのです」
「ちょっと待って! 生まれ変わるって、どういうこと!? 兄さんは、どうなるの!?」
「もちろん、己が“勇者”であったという事も含めて、シュカとしての記憶は全て失います」
「どうして!?」
叫んでいた。兄さんが、消える?
「もう十分でしょう!? 兄さんは、世界を救ったのよ! それでいいでしょう!?」
「ミーア」
必死になって喚く私を、兄さんがたしなめた。
息苦しそうに、褐色の瞳を伏せる。
「――ごめん」
身体中の血が引いていくのを感じた。
「裏混沌を背負うのが僕の、いや、勇者の定めなら、僕はそれに従わなくちゃならない」
よどみなく告げた兄さんは、驚くほど穏やかな顔をしていた。
裏混沌を使役する“勇者”は、運命を受け入れる
「魔王の娘、私に任せて下さい」
青年が声をひそめて告げる。
「あなたには、勇者の事を、忘れて頂きます」
「そんな! 私は一人になるの!? どうやって生きていけばいいの!?」
すまなそうにこちらを見ている兄さんに詰め寄る。
兄さんの答えなんて、分かっていた。世界の均衡を保つのが“勇者”だから。
「忘れられてしまうのは悲しいけど、おまえの心に傷を残さない為だ。おまえは強い子だ。僕なんかより、おまえを幸せにしてくれる人が、必ず見つかる」
私には、何も残らなくなってしまう。
足が竦んで、立っているのがやっとだった。
「よろしいですか? 勇者」
「……ああ」
青年が、詠唱をはじめる。
「嫌よ! 兄さん! 行かないで!!」
駆け寄ることも出来ずに、叫ぶ。
濡れて歪んだ視界の向こうで、兄さんが、私から顔を背けた。
頭が重い。眠りの魔法だ。
「兄さん……」
上げようとした手は言う事をきかず、気力を振り絞って抗おうとしたけれど、視界はあっけなく暗転していった。
夜中だった。
ゆかに倒れているらしく、窓から上弦の月が見える。
ゆっくりと身体を起こし、ふと違和感に気付く。
静かだった。
そのことに思い当たった途端、ぞくりと背筋に悪寒が走った。思わず強く目を閉じると、脳裏に白い光が閃いた。
「!?」
何の前触れもなく、気を失う直前の記憶が、怒濤のように脳裏に流れ込んできた。
突然現れた青年。別れを告げた兄。
耳を塞いで目を閉じて、違う事を考えようとしてみた。けれど、同じ場面が何度も繰り返される。
全てが克明だった。
床にへたり込んだまま、動けなくなってしまった。
私は、記憶を失ってなんかいなかった。