「それにしてもすごい人数だな」
群衆の中でペルゼンが毒づいた。彼は中尉と「処分」のための調査に来ていた。何も知らないユダヤ人たちは、二人の姿を見ると慌てて道を開けた。
「それで、どうするつもりなんだ?」
「生存ラインは16歳以上35歳以下の健康体だ。わずかでも欠陥のあるものは除外する」
ペルゼンの問いかけに、中尉は面倒くさそうに前髪をかきあげた。そしてゴミ焼き用の五基の焼却炉を指差す。
「人間用のはないんだ。あれで我慢してもらおう」
「ふぅん」
気のない返事をして、ペルゼンは群集を見回す。中尉の言った条件に当てはまる者はそう多くなさそうだった。
「何も知らねぇんだろうな、みんな」
「知らせる必要もないだろう?うるさいだけだ」
答えた中尉は。
ふと、その足を止めた。何かが記憶に引っかかった。
振り返る。
声が、聞こえた。
夢の中の母親と、似た声だった。たった一つの母親の記憶。本人でないことくらいは承知していた。当然だ。彼女はドイツ人で、もういないのだから。
誰だ?
気がつくと彼は声のした方向を目で追いかけていた。目が合ったのは初老の女性で、おそらく彼女の息子だろう、それに話し掛けていた。
瞬間、中尉の時間は止まっていた。見知らぬ親子の姿が、母さんと昔の自分を思い出させた。耳障りな雑踏の中で、彼女の声だけが中尉の耳に焼き付いて離れなかった。
「どうしたんスか?中尉さん」
ペルゼンの声で現実に引き戻される。
「何でもない」
そっけない返事を投げつけ、中尉はそのまま建物の中に戻って行く。ペルゼンは不思議そうに一度後ろを振り返り、後に続いた。
大体穴の掘り終わったころ。親衛隊員が群衆を一ヶ所に集めた。太陽の位置からして午後二時といったところ。終了の合図にしては早すぎる。
何かが起きる。
少女は膨れ上がる胸騒ぎを感じ、横目でルーイを見やった。ルーイは陽光と風に、眩しそうに目を細めていた。
「今から身体検査を行う。全員指示に従え」
小銃を持った親衛隊員が拡声器の向こうで怒鳴っていた。
そして、最後の審判は始まった。
だが、裁かれる本人たちは何も知らない。つらい作業から開放された彼らは、呑気に笑顔さえちらつかせながら検査の列に並ぶ。少女もルーイと一緒に列の後ろのほうについた。
二人の位置からは先頭で何が行われているのかよく見えなかったが、人々は確実に二つのグループに分けられていた。大部分の右側、そして小数の左側。その選別の意味を、彼らはまだ知らない。
「なんだか、怖い」
列は次第に短くなる。
「そう?」
ルーイは小首を傾げ、鼻の頭を掻いた。
そうして、ルーイの順番が来た。先頭で待っていたのは親衛隊員と軍医だった。隊員が言う。
「名前と年齢を言え」
「ルーイ・ミッターマイヤー。16歳です。ハイル・ヒトラー」
少女より三つ年下の少年は、小さな声で答えて最後に叩き込まれた挨拶をした。隊員は手元の名簿でルーイの名前を探し出し、チェックを入れてから軍医に引き渡した。医師はちらりと少年を見、
「君はあっちだ」
首を振ると右側を指した。ルーイは黙ってそれに従う。
次は、私だ。
少女は乾いた唇を舐め、背筋を伸ばす。親衛隊員がした質問はルーイのときと同じだった。ただ、違ったことといえば、軍医が丁寧に彼女の胸に聴診器を当てたこと。医師は言った。
「左だ」
生と死が、別れた。
僕は絵が描きたいんだ。
向こう側でルーイが少女に手を振っている。
少年は、何も知らない。
少女も、何も知らない。
彼女は遠くで笑うルーイに小さく手を振り返した。
「400弱。思ったより多かったな、中尉さんよ。命令書は200と書いてあったぜ。どうするんだい?」
窓の外では二つのグループに分けられた群衆が、自分たちの運命も知らずにざわめきあっている。そんな光景を二階の中尉の部屋から見下ろし、ペルゼンは煙草に火をつけた。「気にするな。どうせ輸送中に何人か死ぬだろう。それでも余るならベルリンに処分させればいい」
中尉が答える。その時、ドアが軽くノックされた。
「失礼します」
入ってきたのはフランツ親衛隊少尉だった。ペルゼンは煙草の煙を吐いた。
「報告いたします」
直立不動を崩さずに、フランツは続ける。
「準備はすべて整いました」
「そうか。貴様もすぐに行け」
しかしフランツはこの命令に従えなかった。
「どうした?」
中尉の眼差しが鋭くなる。ペルゼンはポケットの中で二本目の煙草を探っていた。フランツ少尉は一歩、前に出た。
「自分には家族が三人います。70歳になる母親と6つになる娘。そして妻の腹には男の子がいます」
少尉の声は小刻みに震えている。それはすべて、処分されるユダヤ人の条件に当てはまっていた。
「何が言いたい?」
中尉の右手が腰の銃に伸びたのを、ペルゼンは煙草の煙の間から確認した。
「ですから、彼らを殺すのは…、自分には…」
後半は声にならない。恐らくフランツにも中尉の右手の動きは見えているはずだ。
「ほう」
悪戯っぽく笑い、中尉は銃口を上げる。撃鉄は、上がっていた。
「命令は、絶対だぞ?」
フランツはなおも何かを訴えようと試みたようだったが、舌がもつれて言葉にならない。対照的に、冷ややかな笑みを口の端に浮かべたのは中尉だった。
「ならば貴様には別の命令をくれてやろう」
次に起こることの大体の予想がついたペルゼンは、素早く視線を窓の外に移した。
「死ね」
平然と言い放ち、引き金が引かれる。赤い水溜りが床に広がった。
「これを片付けておけ」
軍曹に命令し、中尉は小銃をつかんで部屋を出る。
「先に行っているぞ。貴様も急げ」
開いた窓から吹き込んだ風が、書類の積まれた机の上をめちゃめちゃに散らかして行った。中尉の出て行った扉を見つめ、ペルゼンはカリカリと頭を掻く。息絶えた少尉の胸ポケットから、一枚の写真がこぼれていた。モノクロの画面の中で、彼と彼の家族が楽しそうに笑っていた。
信じるものは、何ですか?
心の壊れた殺人機械。
信じるものは、何ですか…?
少女たち「左側」は部屋に戻され食事を与えられた。パンに干し肉。それにスープ。今までとは明らかに違う待遇に、少女は不気味さを感じていた。
変だ。
何かが起こる。
何かが起こっている。
少女はそろそろ西に沈もうかという太陽を、ヒビの入ったガラス越しに眺めていた。
夕陽。夕焼け。
赤い。
血の色。
僕は絵が描きたいんだ。
外では地獄が繰り広げられていた。裸にされた「右側」は今になってようやく穴の用途と自分たちの不運を知った。終わらない悲劇。銃声は止まない。
「ひどいな。確かに今晩肉は食えねぇ」
穴を覗き込んだペルゼンは、夕方だというのにサングラスをかけていた。その後ろで中尉が小銃の弾を入れ替えている。リヒターが、今にも泣き出しそうな顔をして口元を押さえながら穴の中の死体に土をかけていた。そしてリヒターは平然としている二人の上官に敬意と憧れの混じった眼差しを向けるのだった。
狂った日常。
奇妙な感情。
「次、急げ」
中尉の命令。ただそれだけで無実の死刑囚たちが歩いてくる。
「並べ」
彼らの後ろで、暗い死の淵が大きな口をあけて笑っている。もう、奇跡は起こらない。吹き抜けた風は、血の香りがした。中尉は銃口を固定し。
目の前に立つ女性に見覚えがあった。
あの女だ。
母さんとよく似た声の、あの女だ。
ふと、顔の記憶のない母親の影が、目の前の名前も知らない女性に重なる。
もう戻れない過去。
引き金を引く指が硬直する。
頭の中に、もうひとりの自分がいた。それは目の前の女性を通して母さんを見ていた。大好きだった母さん。もう会えない、母さん。そして、母さんと似た声の女。
撃てない。「母さん」は撃てない。撃ってはいけない。
頭の中で、声がする。引き金を引けという脳からの指令は、指に伝わらない。
母さん。大好きな、母さん。
頬を滑ったのは冷や汗だった。
違う。この女は違う。母さんではない。ふざけるな。
中尉は胸中で自分を怒鳴りつける。そんなことは理解していた。しかし、一度よみがえった母親の記憶は、そう簡単には消えてくれなかった。額に汗が浮く。お気に入りだった母親の膝の感覚が、何故かいまさら思い出される。
撃てない。俺には撃てない、撃ちたくない。
だが、撃たなければ…。
二つの思考が混ざり合う。どうすればいいか分からない。こんな感覚は、初めてだった。人を殺すことくらい、何でもなかった。それなのに。
彼女だけは、死なせたくなかった。それでも。
撃たなければならない。俺は「殺人機械」なのだから…。
二つの感情は激しく反発しあい、中尉は予期せずその場に膝を折った。小銃が、音を立てて転がる。
「中尉?」
ペルゼンの声がやけに遠くで聞こえた。
「どうしたんだよ!畜生!」
続く銃声。結局、この場はペルゼンに委ねられた。そうして、重たい落下音。
あれはいのちのおちるおと。
中尉はしばらく膝をついて荒い息をしていた。自分が、わからなかった。やがて彼が顔を上げたとき、目の前にあの女性の姿はなく、次の一団が最期の時を待っていた。ふらつきながら立ち上がった中尉に、ペルゼンが肩を貸してやる。
「疲れてんじゃねぇのか?今日はもう休みな」
「大丈夫だ。何でもない」
何でも、ないんだ。
それは自分に言い聞かせるように。
「おい。俺は中尉さんを医務室に連れて行ってくるからよ。すぐ帰ってくるけどそれまでお前、ひとりで片付けといてくれや」
ペルゼンは問答無用でリヒターに小銃を投げてよこす。リヒターの目が涙目になり、自分にはできないとばかりに首を横に振った。
「今度おごってやるからよ」
思いついたいちばん簡単な説得だけ残して、軍曹は歩き出す。中尉は目のあたりを押さえたままペルゼンに引っ張られるようにして建物の中に消えて行った。
結局、ペルゼンが戻ってくるまでリヒターは何もできずにその場に立ち尽くしていた。軍曹は、しかし彼を責めたりはしなかった。
途絶えることを知らない銃声が、夕暮れの空にいつまでも響いていた。
そんなすべての光景を、ヒルダはただ見つめていた。人間が人間を殺している。そこには何の感動もない。
彼女は歌手になりたかった。
「もう…無理かな」
誰かに聞いてもらいたくて呟いたが、その相手は風しかいなくて。もう、歌を歌うには心が離れすぎた。もう、歌なんて忘れてしまった。そしてかわりに銃を知った。人を殺すことを知ってしまった。
彼女は歌が歌いたかった。それなのに。
「いつ、忘れてしまったんだろ」
その問いに、答えは出ない。まわりでは途切れることのない銃声と悲鳴。耳は、もうそのどちらにも麻痺してしまっていた。
ふと、ヒルダの口から歌が流れた。曲は、昨日少女が歌った歌。あの子はどうなったのだろう。そんな思いが一瞬頭をよぎったが、それだけだった。
ヒルダは歌う。聴衆はいない。
「誰かに聴いてもらいたかったけど」
ステージに立つ自分の姿を想像し、何故か涙が流れた。もう、叶わない。もう、きっと届かない。
ヒルダはそのまま銃を抜き、弾丸を一発だけ、静かに込めた。
もう過去へは帰れない。だから。
そして彼女は自分に向かって引き金を引いた。
彼女は歌手に、なりたかった。
僕は絵が描きたいんだ。
そう言って笑っていた少年は帰ってこなかった。
窓の外、止まない銃声と空まで昇っていく焼却炉の赤黒い煙。そして少女はすべてを知った。
「どうして?」
思わず口をついたのは平凡な疑問詞だった。
どうして?
私、約束したのに。バラの花束、持って行くって。そしたらルーイ、笑ってたのに。今日のお昼は、一緒だったのに。
「ひどいよ」
悲しみはいつも一方通行。
「もう、やめよ?」
もう嫌だ。誰かがいなくなるのは嫌だ。
「戦争なんて」
人が、死ぬだけじゃない。夢が、消えるだけじゃない。
砂煙をあげて、外を一陣の風が通り過ぎた。その日の月は、赤かった…。