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§君の心に風の戻る日:第二章§

そして少女は炎を見た (2)

著:林田ジュン

 夜。
 薄い毛布に包まり寒さと戦っていた少女は、ふと耳に入った苦しそうな寝息で目を覚ました。消灯時間はとっくに過ぎているので天井の豆電球は根元から切られていた。少女は暗やみに目を慣らすと音の場所を探る。そしてそれはすぐに見つかった。
 二段になったベッドの、彼女のすぐ下に寝ていた女の子。確か名前はマリアだった。
「どうしたの?」
 近寄ってそっと声をかけてみるが、それ以上の反応は返ってこない。ただ、奥歯ががたがたと鳴っている。
「寒いの?」
 何気なく額に触れた指が高熱を感じ取った。
「大変だ」
 慌てて周りを見回したが、起きている者は自分以外にはなく。少女は、眠っている人を起こさないように気を付けて立ち上がった。
「放っておくわけにもいかないじゃない」
 一瞬軍部直属の医師に見せようかとも思ったが、どうせ「安楽死だ」とか言って引き金を引かれて終わるような気がしたのでそれは却下した。
「よし」
 少女はわずかな思案ののち、心を決めた。そして自分の毛布を取ってきて、マリアにかけてやる。
 それなら自分が助けてあげよう。
「待っててね」
 言って少女は部屋を出た。彼女は、この建物の外に食料倉庫があるのを知っていた。そこに行けば簡単な薬くらいあるかも知れない。実際中に入ったことは無かったが、頼りに出来るものはそれくらいしかなかった。
「鍵がかかっていたら、困るけど」
 彼女たちユダヤ人は、当然そこに入ることは出来ない。以前、空腹に耐え兼ねて忍び込んで人が見つかって、処刑されたのは知っていた。だけど。
 だけど私は、マリアを助けたい。
 少女は収容棟の出口の扉の前で、一つ深呼吸をした。便所は外にあるので、ここは自由に出入りできる。問題はその後だ。扉のところで監視している親衛隊員に名前だけ継げると、彼女は思い切って駆け出した。寒ささえも攻撃的だった。
 分厚いコートに身を包む親衛隊員の視界から自分が消えたのを確認して、少女は回れ右をした。便所と食料倉庫は反対の方向だった。もう、言い訳は通用しない。
 少女は加速した。
 だって、私はマリアを助けたい。一瞬、マリアの顔と死んだ妹の顔が重なった。エヴァとマリアは同じくらいの年齢だった。
 しかし、少女は見逃していた。あまりにも無我夢中になりすぎて、倉庫の小さな窓から明かりが漏れているのに気がつかなかった。
 薬。マリアが待っている。
 扉に鍵はかかっていなかった。変わりに、中には親衛隊の姿があった。
 少女は今になって自分の不注意を呪ったが、遅すぎた。
 中にいたのはヒルダだった。彼女は、ペルゼン軍曹に頼まれて食料の在庫を調べている途中だった。彼女はほとんど無意識に銃を抜き、少女の額に銃口を向ける。反射的に少女は自分でも信じられないことを叫んだ。
「あの!失礼します!私、あなたが退屈だと思って歌を歌いにきました!」
 愚かな嘘だというのは分かっていた。しかし、背中が嫌な汗で凍り付き、思考は停止してしまって賢い言い訳など思い浮かばなかった。叫びつつ彼女は隊員の顔色をうかがう。だが、それは前髪に隠れて良く見えなかった。
 少女の台詞が嘘だということはすぐ分かった。ヒルダが引き金にかけた指に力を加えようとした時、だがそれより一瞬早く少女が歌い出した。
ふと、ヒルダは自分がかつて歌手になりたかったことを思い出した。少女は、知っている歌を思い付くままに四曲歌った。最初声が震えて音程さえ外れていたそれは、しかし終わりに近づくにつれヒルダも良く知っている懐かしい歌に変わっていった。少女の額には、冬だというのに汗が光っていた。
 ヒルダは、歌手になりたかった。なんとなく思い出した自分の夢に、銃口がわずかに下を向く。
「以上です!」
 頭を下げ、歌い終わった少女が逃げるように回れ右をした。そんな彼女を、ヒルダは意識せず呼び止めていた。
 もう一曲歌って欲しい。
 言いたかった本音の変わりにチョコレートを探して投げてよこす。少女は脅えた表情でそれを拾うと、今度こそ外の闇に消えていった。ヒルダは銃を適当にその辺に放り投げると、ジャガイモ袋に腰を下ろした。外では風が鳴っている。
「歌…かぁ」
 長い間、歌うことすら忘れていた。
「大好き、だったのにね」
 寂しく笑う。もう、軍曹の命令を続ける気にはなれなかった。

 少女はチョコレートを抱えて大急ぎで部屋に飛び込んだ。薬は手に入らなかったが、マリアは喜ぶだろう。だが何よりも自分の命が助かったのが嬉しかった。まだ心臓は大きく鳴っていた。
「喜ぶかな、マリア」
 マリアは、死んでいた。
 行き場を無くしたお菓子が転がり、少女はその場に膝を折る。死者は見慣れていたので、涙は流れなかった。誰かが死んでいくのはここでは当たり前のことだった。
 夜明けが近いのか、外で軍用犬が吠え出した。少女はマリアの小さな手にチョコレートを握らせてやり、それで全て忘れることにした。
 いちいち何もかも覚えていたら、きっと心は壊れてしまう。悲しみだらけの思い出に耐えられるほど、私はきっと強くはない。
「だけど私は信じてる」
 未来はきっと晴れると。
「信じてる」
 彼女はもう一度、自分に強く言い聞かせた。


 その日もいつもと同じで朝の点呼から始まった。担当の親衛隊員が名前を呼び上げ、生きているかどうかを確認するのだ。当然、マリアの返事はなかった。そして少女たちは着替えもそこそこに部屋を追われ、マリアの遺体はそのまま隊員が死体置き場に運んで行った。その後のことは分からない。
「おはよう」
 少女は廊下で眠たそうに目をこすっている少年を見つけ、声をかけた。
「眠たそうね、ルーイ?」
 少女が微笑むと、ルーイは小さく頷いた。
「今朝は寒かったから」
 答えて数回、咳をする。少女よりも数ヶ月あとにここにやってきた少年は、体が弱いらしく冬になってからずっと風邪を引いていた。
「今朝、マリアが死んだの。ルーイも知ってる子よ」
 外に向かう群衆の波に飲まれながら、少女はふと、悲しみを打ち明けた。ルーイはしきりに鼻をすすっている。
「僕の部屋もだよ。優しかったおじいさん、今朝、起きなかったよ。その死体をね、鼠がかじってるんだ。僕の頭くらいあるデブ鼠さ。そいつがこうやって牙剥いて、おじいさんをかじってるんだ」
 鼠の食事を真似しながら、思い出してルーイは口元を押さえた。
「哀しいね」
 なんとなく、世の中が。
 なんとなく、何もかもが。
 そして二人は、外から吹き込んできた強い風に体を震わせた。朝食の配給は、なかった。

 その日課せられた仕事は穴掘りだった。いつもヘルメットを磨いていた作業場は閉鎖されていた。少女はいらなくなった土を運びながら、しかしいつもと違う作業に特に疑問を抱くことはなかった。視界の片隅ではルーイが地面に穴をあけている。細い体が、辛そうに荒い息をしていた。
 そのうち、昼が来た。
 配られた黒パンは、二人でひとつしかなかった。少女はパンを半分に分けながら、かつて兄とビスケットを半分こしたことを思い出していた。そしてあの時と同じように大きいほうをルーイに差し出した。
「ありがと」
 そう言って笑ったルーイの横顔は、太陽の光を浴びていつもより白く見えた。
「戦争が終わって自由になれたらね。僕は絵を描きたいんだ」
 しばらくして食事を終えたルーイが、こんなことを言った。風に、少年の前髪が揺れていた。
「それでね、いろんな人に見てもらうんだ。君の絵も描いてあげるよ。もちろんマリアだって」
 話しながらルーイは雪の上に指で絵を描きだした。猫の絵。昔平和だったころ、ルーイの家で飼っていた猫。彼はよく、この猫を描いていた。少女はそれを、いつものように黙って見ていた。
 いいな。
 ふと、そう思った。
 来るといいな。
 ルーイが夢見ている、そんな日が。
「そのときは、私も呼んでね。真っ赤なバラのお土産を持って見に行くから」
 ちいさな、ゆめ。
 二人の心はささやかな未来に飛ぶ。
「約束だよ」
 そう言った少年の声を、突然の風が乱暴に消して行った。

÷÷ つづく ÷÷
©2000 Jun Hayashida
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