≪REV / EXIT / FWD≫

§短編§

祭器

著:真柴 悠

 神殿の大食堂と同じような、飾り気のない広い部屋だった。
 まわりは分厚い石の壁に囲まれていて、高い位置に小さな窓があり、広い部屋なのに、塔か煙突の中にいるような圧迫感がある。
 連れて来られた時は、縛られて地下牢にでも放り込まれるものだと思っていたから、少し安心した。
 壁際に置かれたベッドの隅に腰を下ろし、石壁の模様を眺める。
 心細くはあった。でも、不思議と恐怖はなかった。
 これでよかったのかもしれない。少なくとも、私がいなければ、常に私を守ってくれていた人たちに危害は及ばないのだから。そう思うようになっていた。

 陽が傾き始めると、黒いローブの人がきて、壁に明かりを灯していった。
 それから少したって、誰かの足音が近付いてくるのが聞こえた。
 ローブの人は足音なんてたてないから、きっと別の人だ。
 靴音は、この部屋の扉の前で止まった。
 息をひそめていると、女の人の声が聞こえた。
 扉の外に立っている番兵と言葉を交わしている。
 種族語らしく、内容を聞き取ることは出来なかった。
 鍵の鳴る音がして、錠が外された。
 ゆっくりと扉が開き、全て開ききる前に、人が入ってきた。
「私の部下を、随分手こずらせたようだな」
 長身の、綺麗な女の人だった。
 ひとつにまとめた黒い髪を、血のような赤いリボンで結い上げている。
 たたきつけるような口調と表情は、冷酷そのものだった。
 ベッドに腰掛けたままでいると、女の人は、私のすぐ側までやって来た。
 危害を加える気がないことは、気配で分かった。それでも少し不安になって、俯く。
「皮肉なことだな。暗黒神の刻印を持つ者が、光の神の名を語っていたとは」
「私に、神の刻印があるなんて思えません」
 女の人が、細い眉を上げる。
「おまえは、世を哀れんだ暗黒神の申し子だ」
「私の身体は……私のものです」
「しかし、すでに我が手の内にある。おまえには悪いが、その身体、使わせてもらうぞ」
 内から沸き上がってくる笑いをかみ殺したような、上ずった声が、薄暗い室内に響いた。
 顔を上げて、女の人の顔を見る。
 なんて……なんて冷たい目をしているんだろう。
 射すくめられてしまったように、褐色の瞳を見つめた。
 女の人は、酷薄な笑顔のまま、組んでいた腕を解いた。
「怖いか? 案ずるな。可能なかぎり丁重に扱わせて頂く」
 違う。冷たいんじゃない。
 深い闇の奥に置き去りにされたような孤独。
 褐色の瞳は、今までに見た事もない、悲しい色をしていた。
「……可哀想」
 かすれた声で、呟いた。女の人には、届かなかったようだった。
 高く結われた髪が、首をかしげるのに応じて揺れる。
「あなたは、怖い人じゃない。あなたは、何かに耐えています」
 この人は、泣けばきっと血の涙を流す。そんな気がした。
「自分の心を犠牲にして……その“何か”から目をそむけることも出来ずに」
「黙れ! おまえも聖職者であるなら、その目で見てきた筈だ。罪なき者が安息を求めて彷徨う姿を! 弱き者が惨めに潰えていく様を!」
 吐き捨てるように告げて、石の壁に、激しく拳を叩きつけた。
「弱きものが、強きものの犠牲となる世界を甘受させる天秤なぞ、私が許さぬ」
 壁を殴った衝撃で、血の滲んだ白い手を、女の人は空虚な瞳で眺めていた。
 拳を開いたかと思うと、はじけるような哄笑を上げ、前髪をかき上げた。
「おまえは、世界を救う、選ばれた魂なのだ。光栄に思うがいい」
 唄うように、女の人が呟く。褐色の瞳は、私をとらえていなかった。
「おまえの身体に、暗黒神が降りる。その時こそ、全この世に生あるものすべてに等しく、究極にして永遠の安らぎが訪れるのだ」
 私に、神を降臨させる器があるとは思えない。でも、もし、私が暗黒神に乗っ取られてしまったら……世界は消えてしまう。
 初めて、怖いと思った。
 全身から血の気がひくのを感じて、震えながら俯いた。
 不安に駆られ、強く目を閉じる。
 なかば無意識に、いつも傍にいてくれた、旅の剣士を思い浮かべた。
 物覚えは悪いし、人の話は聞かないし、後先考えずに思いつきで行動するし、とても、年上の男の人だとは思えなかった。でも、彼の傍にいる時が、いちばん安らぎを感じた。
 深く、息を吸う。
「彼は……きっと、助けに来てくれます!」
 自分でも驚く位、大きな声が出た。
 女の人の顔から、恍惚が消える。
「助けに来る? ふん、一向に構わぬ。儀式さえ終われば、この世界は暗黒神のもの。全ては滅ぶ」
 自信に満ちた表情は、そうすることで、自分を納得させているようだった。
 彼女には、他に道がない。漠然と、そう感じた。
 私では、この人を、助けてあげることは出来ないのだろうか。
 じっとこちらを見ていた褐色の瞳から、険しさが消えた。
「大切な者か?」
 頷くと、女の人は薄く笑った。
「酷い娘だ。その者に、おまえが終焉の器となる瞬間を見せてやろうというのだからな」
「ティガーは……助けてくれる。絶対に」
 自分自身に言い聞かせるように呟くと、女の人が踵を返した。
「我が名はミーア。魔王の娘。憎ければ呪え。だが、男が来なかった時の絶望は、請負わぬぞ」
 扉の向こうに女の人が消え、鍵のかかる音がした。
 遠ざかっていく靴音を聞きながら、そのままベッドに横になった。

 ここに来て、私は一度も神様の名を呼ばなかった。
「私は……貴方を信じます」
 疲れ果て、暗い眠りに落ちていく中、私はずっと、彼の名を呼び続けた。

÷÷ おわり ÷÷
©2004 Haruka Mashiba
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